第81話 政治で殴る
王太子の執務室を出た瞬間。
廊下の空気が、少しだけ軽くなった。
けれど、それは“外”の空気であって――
中身は、もっと重くなる。
「……殿下は、怒っておられますね」
ルーカスが淡々と言う。
敬語なのに、感情がない。
それが逆に怖い。
「怒ってないとでも思った?」
私は礼式のまま歩きながら、軽く返す。
「紙を握り潰す男が、冷静なわけないでしょう」
父――公爵は、何も言わない。
ただ、歩幅を少しだけ私に合わせてくれている。
その“合わせ方”が、後ろ盾だ。
一方で。
レナートは、廊下に出ても視線を控室の方向へ置いたままだった。
首を動かさないのに、意識だけがそっちに向いている。
犬が、散歩中に飼い主を確認するみたいな――
(……いや、違う。もっと硬い)
(確認じゃない。“警戒”だ)
灰の司祭が、どこからかひょこっと現れた。
足音がしない。
本当にしない。
ローブの裾が、床を撫でる音だけ。
目元の濃い隈が、夜明け前の光でさらに青く見えた。
「面白いですね」
ローテンションの声。
それでも、楽しんでるのがわかる。
「殿下は“政治”で殴ると言いました」
「つまり、殴る場所は二つです」
「公爵家」
「そして――伯爵家」
レナートの眉が、ほんの僅かに動く。
「……うちですか」
「ええ」
灰の司祭は頷く。
「医療監督という名札を付けた瞬間から、あなたは“医者”ではなく“駒”です」
「駒に対して王太子がやることは、簡単」
「動ける範囲を決める」
「勝手な方向へ行けないように、紐を付ける」
ルーカスが、すぐに繋げる。
「つまり、命令書と権限書の作成です」
「殿下はそれを“公式”の形にする」
「そして公式の形にするために、関係者全員を巻き込みます」
「巻き込む相手は、口を出せない者から」
私は息を吐いた。
「……ロウを使う」
誰も否定しない。
否定できない。
控室の扉が遠くに見える。
衛兵が二名。
それ自体が、答えだ。
(あの子は今、“守られてるように見えて”)
(実際は、“置かれてる”)
父が、やっと口を開いた。
声は低い。
「クラリス」
「次に来るのは――命令だ」
「こちらが拒めない形で来る」
私は頷く。
「だから先に、形を作る」
「拒否できないなら、“拒否する必要がない形”にしてしまう」
灰の司祭が、面白そうに目を細めた。
「いいですね」
「あなたは“物語”ではなく“規則”で戦う」
「泣き落としが効かない相手は、嫌われますよ」
嫌われる?
上等だ。
泣くよりマシ。
その時。
反対側の廊下から、侍従が早足で近づいてきた。
息が少し乱れている。
手に持った封筒には――赤い封蝋。
王家の紋。
(来た)
侍従は、父に礼をしてから私へ。
「公爵令嬢クラリス・フォン・アルヴェーン様」
「王太子殿下より、至急の通達です」
私は受け取らない。
一瞬だけ、父を見る。
父が頷く。
私は受け取る。
封蝋を割る音が、廊下に響いた。
紙を引き抜く。
――字は美しい。
王太子の筆跡だ。
いや、これは書記官の手。
“公式”だ。
読み上げる必要はない。
けれど私は、声に出す。
記録がなくても、耳の記録を残すために。
「……公爵令嬢クラリスは、王都内にて“王家監督下の身”として行動すること」
「同行者は、王家が指定する」
「指定者――聖女セレスティナ」
「そして、医療監督レナート・フォン・ベルデンベルク」
「参考人ロウは、別室にて王家監督のもと待機」
廊下の空気が、ぴしりと固まった。
(……ほら来た)
(政治で殴るって、これだ)
ルーカスが淡々と解説する。
「移動の自由を奪い」
「同行者を固定し」
「監督という名で拘束する」
「さらに、ロウを分離して“人質”化する」
私は紙を持ったまま、視線を上げた。
「“同行者に聖女”を入れるのが、最高に嫌らしい」
「泣き落としの舞台を、勝手に連れて歩ける」
灰の司祭が、くすっと笑う。
「はい」
「あなたが拒否すれば、“聖女の善意を拒む悪女”が完成します」
「受ければ、“聖女があなたを監督する”形になります」
「どちらでも泣けます」
「涙の燃料が尽きません」
レナートが、初めて紙から目を離した。
礼式のまま。
しかし声が、冷える。
「……ロウを別室に?」
「誰の別室だ」
「何の権限で」
ルーカスが静かに言う。
「王家監督の名で」
「つまり、正式な“保護”に見せかけた“隔離”です」
父が、淡々と告げる。
「拒否は難しい」
「だが、条件交渉はできる」
私は頷く。
「書式に穴がある」
「この通達、“公式の訪問記録”を残さないまま出した」
「王太子はお忍びで来たはずなのに、今は“公式の監督”を名乗っている」
ルーカスが、目を伏せて笑った。
ほんの一瞬。
「矛盾です」
「そして矛盾は、こちらの武器です」
私は紙を折り畳む。
一度、深呼吸。
「……よろしい」
「殿下が政治で殴るなら」
「私は、政治で受け止める」
「受け止めたうえで――返す」
そして私は、侍従へ丁寧に言った。
「承りました」
「ただし、確認事項がございます」
「この通達は“王命”ですか?」
「それとも“王太子の指示”ですか?」
侍従の顔が、一瞬だけ固まる。
それが答えだ。
(王命じゃない)
(王の裁可を通してない)
私は続ける。
「王命でないなら、手続きが必要です」
「同行者の指定も」
「参考人の隔離も」
「監督権限も」
「――記録と責任主体の明記が必要です」
侍従は、困ったように息を吸った。
「確認いたします……」
ルーカスが、私の横で小さく頷く。
父も、目線だけで肯定する。
灰の司祭は、楽しそうに目を細めている。
レナートは――控室の方向を見たまま、一歩も動かない。
その姿が、答えだった。
(殴られても、折れない)
(折れないように、“形”を作る)
(――ロウを、折らせないために)
そして、遠くの控室の扉が開いた。
衛兵が、誰かに声をかける。
短い返事。
聞き慣れた、少し生意気な声。
「……は? 待機? 俺が?」
「何それ。犬かよ」
胸が、きゅっとなる。
その瞬間だけは。
私も、レナートも、同じ方向を見た。
次の戦いは、もう始まっている。
王都の中で。
紙の上で。
そして――控室の中で。
火種は、確かに燃えた。
静かに。
確実に。




