第77話 破棄した“つもり”の代償
王太子執務室の空気は、すでに一度冷え切っていた。
“記録がない”という事実が、言葉より強い武器になることを、ここにいる全員が理解してしまったからだ。
父は礼式を崩さず、淡々と姿勢を保っている。
ルーカスは微笑すら浮かべない。
レナートは、いつも通り――完璧に整っている。
そして私は、机上の書類を一枚、指先で揃えた。
(ここから先は、ロウじゃない)
(この部屋の中心は、私だ)
レオンハルトが苛立ちを飲み込みきれずに、唇を歪める。
「……ならば話を戻す」
「クラリス、お前の件だ」
来た。
“破棄したつもり”で動いている男の、いちばん痛い場所。
レオンハルトは、すでに結論を持っている顔をしていた。
最初から、そういう顔で人を潰してきた。
だからこそ、言ってしまう。
「婚約は――」
「殿下」
私は、礼式のまま、言葉だけを静かに割り込ませた。
声は柔らかく。
だが、これ以上ないほど明確に。
「まず整理しましょう」
机の上に置かれた紙束を、私は一枚だけ抜く。
それは“婚約に関する決裁の流れ”をまとめた、確認用の整理紙だ。
決定書じゃない。
けれど、決定に至るまでの道筋を示す。
そして――足りないものを可視化する。
「殿下は、婚約を破棄する“意向”を示されました」
「ですが」
私は、その紙の該当欄を指先で軽く叩いた。
「王の裁可がありません」
「正式な宣言がありません」
「王家の記録にも、残っていません」
沈黙が落ちる。
今度は冷たさじゃない。
“動かせないもの”が落ちた静けさだ。
レオンハルトの目が細くなる。
「……揚げ足取りか」
「いいえ」
私は微笑みもしない。
「王家の手続きです」
父が一歩、前に出た。
公爵の声が、室内に響く。
「殿下。公爵家は“噂”や“意向”で動きません」
「正式な決定がない以上、婚約は継続中です」
レオンハルトの指が、机の端を掴む。
苛立ちで爪先に力が入るのが、こちらにまで伝わるほどだ。
「……だから何だ」
「殿下が“破棄したつもり”で動いていたことは、構いません」
私は、あえてそう言った。
「問題は――」
私は、視線を上げる。
真っ直ぐに、王太子を見た。
「その“つもり”を、王家の外でも通せると思っている点です」
空気が、微かに揺れる。
これは挑発じゃない。
確認だ。
“王太子”である前に、“王家の制度の中の一部”であることを、思い出させる確認。
そしてここで、スカッとを入れるなら――この一言。
ルーカスが、淡々と付け足す。
「殿下。念のため申し上げます」
「婚約が継続中である以上」
「クラリス様への処分を“殿下の一存”で決めることもできません」
逃げ道が、消えた。
レオンハルトは、笑おうとした。
けれど笑えない。
笑った瞬間、自分が“制度を理解していない王太子”になる。
「……お前たちは、王を盾にする気か」
「盾ではありません」
私は言い切る。
「王家の手続きに、戻すだけです」
――その瞬間。
机の上の紙が、乱暴に掴まれた。
握り潰すように。
破りたいのに破れない。
破れば、今ここで“王家の記録を否定した”ことになるから。
レオンハルトの声が、低く沈む。
「……いいだろう」
それは譲歩じゃない。
撤退だ。
今日この場では勝てないと理解した撤退。
そして私は、内心でだけ息を吐く。
(やっと、“舞台”から降りてくれた)
だが――
これは終わりじゃない。
次に来るのは、政治の刃。
噂と、涙と、神殿。
そして、王の“観察”。
レオンハルトは最後に、視線だけで言った。
“次は、制度の外から潰す”と。
私は礼式のまま戻りながら、袖の中の境界紙の熱を感じる。
次の章が、始まる。




