第76話 証拠としての少年
王宮の廊下は、夜明け前でも明るい。
灯りの数が多いのではない。
磨かれすぎた石が、光を逃がさないのだ。
――公務室務室。
正式な名は別にあるが、ここに集められた者たちはそう呼ぶ。
“記録の部屋”。
“責任の部屋”。
そして、言葉ひとつで人の身分が変わる場所。
扉の前に立つだけで、空気が変わる。
背筋が伸びる。
伸びない者は、入れない。
私は一度だけ、深く息を吸った。
吐いた。
それで十分だった。
背後に、控えの間がある。
そこに――ロウがいる。
平民だ。
王宮に足を踏み入れる理由など、本来ひとつもない少年が。
それでも今ここにいるのは、理屈は簡単だ。
“事実がそこにある”からだ。
扉の向こうに、殿下がいる。
そして、殿下の傍に――聖女セレスティナ。
公式の礼節が必要な場所。
そのはずだった。
だが、私は最初から分かっていた。
これは公式ではない。
“公式の形を借りた私的な圧”だ。
証拠が残らない。
記録が存在しない。
だからこそ、言い逃れの余地がある。
だからこそ、悪質だ。
私は扉に手を伸ばしかけて、止めた。
先に、控えの間へ視線を投げる。
扉の影。
石柱の陰。
そこに、灰の司祭が立っていた。
いつものように、頭からつま先までのローブ。
見えるのは目元だけ。
――がっつりとした隈。
寝不足の隈ではない。
目を酷使して削ったような、色の悪い隈だ。
こちらを見ているのか、見ていないのか分からない。
なのに、存在だけはやたらと濃い。
灰の司祭が、小さく肩を落とした。
「……面倒ですね」
声は低い。
ローテンションの日の声だ。
だが次の瞬間、目元だけが冴えた。
スイッチが入ったのが分かる。
読書の獣が息を吹き返すみたいに。
「ルーカス」
名を呼ばれた。
私は返事をしない。
返事の代わりに、扉へ指を置いた。
“聞いている”という合図だ。
灰の司祭は、ローブの中で何か紙を弄んでいる。
紙の端が、わずかに覗く。
書類だ。
この男はいつでも書類を持っている。
信仰者というより、管理者に近い。
「少年――ロウの扱い」
灰の司祭が言った。
「曖昧にすると、殺されますよ」
淡々と。
事実を言う口調で。
それが余計に恐ろしい。
私は扉から指を離し、控えの間へ向かった。
数歩で空気が柔らかくなる。
王宮の中で、唯一“人が待たされる”ための場所だ。
控えの間の隅。
椅子に座っているロウが、こちらを見上げた。
座り方が雑だ。
しかし、雑に見えるだけで、身体はきちんと警戒の形を保っている。
癖だろう。
教え込まれた癖。
近くには、レナートが立っていた。
礼式で立つ男の姿は、嫌でも目を引く。
黒に近い紺の衣装。
礼装は簡潔だが、布の質が違う。
髪はラフに流しているのに、乱れて見えない。
疲れたような気怠さが、余計に上品さを強調している。
レナートは、こちらを見ても微動だにしない。
視線だけが動く。
ロウを、確認する。
ついてきているか――
犬が散歩中に振り向くあれに、少し似ている。
本人が一番無自覚なやつだ。
私は、ロウの前で止まった。
膝を折らない。
この距離は、対等ではない。
だが、見下ろすほどでもない。
――“事務の距離”だ。
「ロウ」
私は名ではなく、呼びかけとして言う。
「君は捕虜ではない」
ロウが眉をひそめた。
分からない、という顔だ。
「罪状はない」
「……じゃあ、なんでここにいんだよ」
ぶっきらぼう。
口は悪いが、質問は真っ直ぐだ。
私は、少しだけ言葉を削る。
子どもに通じる形にする。
「君は“証拠”だ」
ロウが目を細めた。
「物みたいに言うな」
「物ではない。だが、扱いは物に近い」
言ってから、ロウが嫌がるのが分かる。
嫌がる、という反応がまだ残っているのは悪いことではない。
「君がここにいることで、誰が何をしたかが“固定される”」
「君が消えると、固定が外れる」
「だから――消される」
ロウが、息を止めた。
怖がったのではない。
理解したときの、静かな顔だ。
私は続ける。
「逃げるな」
「逃げたら、君が悪い形にされる」
「……俺が悪い?」
「そういう形にされる、と言った」
ロウが舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
ああ、よく似ている。
横に立つ男と。
「じゃあ、俺はどうすりゃいい」
「“鎖”をこちらが握る」
私は言った。
「逃げないための鎖だ。君を縛るためではない」
ロウは不満そうに鼻を鳴らした。
「……めんどくせえ」
「面倒で済むなら、面倒でいい」
「生きる方が優先だ」
ロウが、少しだけ口を尖らせた。
反抗心の形を作って、たぶん自分を保っている。
私はそれを壊さない。
壊すと、別のスイッチが入る。
そしてそのスイッチは、
彼を生かした代わりに、彼を削る。
「君の立場はこうだ」
私は、指を折って整理する。
「監督責任は王家」
「管理は公爵家」
「医療監督は――レナート」
ロウがちらっとレナートを見る。
そして、すぐ視線を戻した。
気まずいのか、照れなのかは分からない。
だが、逃げる動きが見えた。
回復の兆しだ。
“人間としての”回復。
レナートが、その瞬間だけほんの僅かに目を細めた。
怒りではない。
危うさを見たときの医師の目だ。
私は、レナートへ視線を移す。
「医療監督は便利な枠です」
「“触れていい”から」
その言葉は私のものではない。
廊下の影から、灰の司祭が投げたものだ。
レナートのまぶたが一度だけ落ちた。
――瞬き。
それだけで、内側の舌打ちが分かる。
表情は崩れない。
声も平坦だ。
「……司祭」
名を呼ばない。
距離を取った呼び方だ。
灰の司祭が、面白がる気配を隠しもせずに言う。
「医療監督は、“権利”です」
「触れられる。診られる。記録できる」
「記録は、王家の監督に刺さります」
「殴らずに、刺せる」
レナートの指が、わずかに動いた。
手袋の縁。
無意識の癖だ。
我慢の癖だ。
私は、ここで話を止めた。
これ以上は公務室務室の外でやる内容ではない。
扉の向こうには、殿下がいる。
聖女がいる。
そして、言葉を曲げて人を潰す空気が待っている。
「レナート」
私は低く言う。
「医療監督の範囲で、最大限を」
レナートは短く頷いた。
「……理解した」
声は冷たいほど落ち着いている。
だが、私は知っている。
この男は落ち着いているのではない。
落ち着く形を作っているだけだ。
崩れたら、手が出る。
そしてその手は、医師の手だ。
血に染まるのは、誰よりも嫌うはずだ。
ロウが、ぽつりと言った。
「……先生」
呼び方が、少しだけ柔らかい。
「俺、逃げねえよ」
レナートは、すぐに返さなかった。
一拍。
そして、視線だけでロウを確認する。
――ついてきているか。
犬の振り向き。
またそれだ。
「逃げるな」
言葉は短い。
命令の形。
でも、そこに何が詰まっているかは、誰でも分かる。
私は扉に戻る。
背中に、灰の司祭の声が落ちる。
「面倒は面倒のままです」
「だからこそ、書類にします」
――そうして、私は扉を押し開けた。
ここから先は、言葉の戦だ。
礼儀で包んで、刃を通す。
“公式”の仮面を使って、
非公式を叩き潰すために。




