第74話 「宣言していない」―それだけで、婚約は生きている
次の瞬間、レオンハルトの手が机の上の紙を乱暴に掴んだ。
紙が擦れる音が、妙に大きく響く。
記録官のペン先が、止まらない。
止まらないから――この場は“公務”だ。
「……口を慎め、クラリス」
殿下の声は低い。
怒鳴ってはいない。
怒鳴れない。
怒鳴った瞬間、感情の勝ちになるから。
私は礼式のまま、淡く微笑んだ。
「殿下」
「恐れながら、私は“慎むべき言葉”を口にしておりません」
「ただ、整理すべき事実を申し上げたまでです」
「事実だと?」
「はい」
私は視線を逸らさない。
「私は、“王家の婚約者”として登録されています」
「そして、殿下は」
一拍置く。
「“婚約破棄を宣言していない”」
室内が、冷たくなる。
レオンハルトは、紙を握り潰すように力を込めた。
「宣言したつもりだ」
ルーカスが、静かに補足する。
「殿下」
「“つもり”は、記録になりません」
「記録にならないものは、公務の効力を持ちません」
殿下の目が、鋭く細くなる。
「……貴様、誰だ」
ルーカスは礼式を崩さず、さらりと答えた。
「本日は、書類と記録の確認役として同席しております」
(まだ名乗らない。ここでは“役割”だけで十分だ)
私は続ける。
「殿下があの場で並べた罪状は、婚約破棄の理由に“したかった”のでしょう」
「しかし最終的に、場は婚約破棄ではなく」
「教会の除名――“されそうになり、撤回された”という形で終わった」
殿下の指が、机を叩いた。
「言葉遊びだ」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「これが、王宮の現実です」
「宣言されていない以上、婚約は生きています」
その瞬間――殿下の顔に、一つの“歪み”が浮かんだ。
怒りではない。
焦りだ。
(婚約が生きていると困る理由がある)
私には分かってしまう。
殿下は、公爵家との繋がりを切りたい。
恋愛の問題ではない。
権力の“配線”を変えたいのだ。
「……なら、今ここで破棄を宣言すればいい」
殿下は薄く笑った。
「王太子として、公式に――」
ルーカスの声が、そこで落ちる。
「殿下」
「王太子として、公式に宣言されるのであれば」
「その宣言は、王の承認手続きに回ります」
「――そして本日は、殿下が“単独で”それを行う場ではございません」
殿下の目が、わずかに揺れた。
(王)
(見られている)
私は、さらに一歩だけ“公式”を押し込む。
「殿下」
「婚約破棄を望まれるのであれば」
「王の前で、正式に」
「理由と手続きを揃えて、お願いいたします」
沈黙。
そして、私が最後に言う。
「……それまでは」
「私は、王家の婚約者です」
記録官のペンが、紙を走った。
その音は、剣よりも重かった。
レオンハルトが、笑う。
だがそれは笑いではない。
歯を噛みしめるための形だ。
「……いいだろう」
「では“婚約者”として」
「その責務を果たしてもらう」
(来た)
“責務”を盾にして縛りにくる。
殿下はいつもそうだ。
殿下は紙束を持ち上げ、机の上に叩きつける。
「これを持っていけ」
「王都へ戻れ」
「――そして」
視線が鋭く刺さる。
「私の前で、二度と“管轄”などと口にするな」
レナートの呼吸が、一瞬だけ止まった気がした。
礼式のまま。
しかし、空気が変わる。
私は、静かに礼を取った。
「承りました、殿下」
(……今のは“命令”だ)
命令として残った。
だから――反撃もまた、命令として返せる。
扉が閉まりかけた、そのとき。
灰の司祭が、私の耳元に影のように落ちた。
「……面白くなってきましたね」
低い、眠たげな声。
目元の濃い隈が、笑った形に歪む。
「“宣言していない”」
「その一文だけで、王宮は燃える」
私は、息を吐いた。
(燃やすなら、こっちの火で燃やす)
涙ではなく、記録で。




