第73話 記録に残るのは、誰の責任か
「……私が引き取る」
その言葉が落ちた瞬間、執務室の空気が目に見えない糸で張り詰めた。
レオンハルトは、ゆっくりと笑った。
「いいだろう」
「伯爵家嫡男が“平民”の身柄を預かると言うのなら――」
椅子に深く座ったまま、指先で机を軽く叩く。
「その資格を、ここで示せ」
(来た)
殿下は「公務」を盾にする。
公務の場で、相手を縛るために。
ルーカスが、静かに一歩だけ前に出た。
「殿下」
「確認いたします」
「本件は“公務の呼び出し”であり、記録官が同席しています」
「よって、ここでの決定は――公式の責任に紐づきます」
「分かっている」
レオンハルトは目を細めた。
「だからこそ決める」
私は、息を整えて言った。
「殿下」
「先ほどより何度も“整理”とおっしゃっていますが――」
「整理するのであれば、順序が必要です」
「順序だと?」
「はい」
私は礼式を崩さないまま、淡々と積む。
「第一に、ロウは“罪人”として拘束されていません」
「第二に、罪状が提示されていません」
「第三に、管轄が確定していません」
一つずつ言い切るたびに、記録官のペンが音を立てる。
残る。
残るから、戻れない。
レオンハルトの笑みが薄くなる。
「……なら、罪状を与えればいい」
(言い方)
私は表情を動かさず、言葉だけで返した。
「殿下」
「罪状は“与えるもの”ではなく、成立するものです」
一瞬、室内の官吏たちの視線が揺れた。
法務官が、ほんの僅かに咳払いをして姿勢を正す。
レオンハルトは、苛立ちを隠すように声の調子を落とす。
「では聞こう」
「その平民は何者だ」
「身元不明ではないのか」
(ここで噂を使う)
“身元不明”は便利な言葉だ。
責任を押し付ける時に、いくらでも使える。
私は一歩も引かずに答える。
「身元が不明であることと、罪人であることは別です」
殿下の目が細くなる。
「言葉遊びだ」
「違います」
私は、静かに首を横に振った。
「王宮の記録は、言葉で動きます」
「そして言葉は、責任になります」
ルーカスが口を挟む。
「殿下」
「仮に“身元確認が必要”であれば、それは行政手続きです」
「罪状とは別に、手続きとして処理されるべきです」
殿下は舌打ちを飲み込んだような顔をした。
そのときだった。
レナートが、礼式のまま口を開く。
怒りは沈められている。
沈められているからこそ、声が冷たい。
「殿下」
「恐れながら、本件は“拘束”でも“放免”でもなく、“待機”という扱いになっております」
「ならば、その“待機”の法的根拠と監督者を、ここで確定させていただきたい」
殿下の視線が刺さる。
それでもレナートは、礼の角度を崩さない。
「王家の監督下に置くのであれば――王家が保全責任を負う形で、保護の宣言を」
「神殿の監督下に置くのであれば――神殿が処遇責任を負う形で、引き取りの宣言を」
一拍。
言葉は丁寧なのに、逃げ道は消えていく。
「いずれの宣言もなされないのであれば」
「医療関係者として、負傷者の安全確保を最優先に、私が一時的に身柄を預かります」
「――その旨を、記録に残してください」
室内の“責任”が、一斉に動いた。
神殿側の連絡役が、硬い声を出す。
「……神殿は、当該平民を“神殿の管轄”とは認めません」
(あっさり捨てた)
つまり、神殿は守らない。
守らないなら、裁く資格も薄くなる。
ルーカスがすぐに拾う。
「承りました」
「神殿は管轄しない、記録に残ります」
レオンハルトが眉を跳ね上げた。
「神殿が管轄しない? なら王家が――」
私は、そこでわざと丁寧に言った。
「殿下」
「王家が管轄するのであれば、今この場で、王家の責任として“保護”を宣言できます」
「ですが、もし宣言できないのであれば――」
私は一拍置く。
「王家もまた、管轄を持たないということになります」
レオンハルトが黙った。
(宣言したくない)
宣言したら、王家の責任になる。
ロウに何かあれば、殿下の責任になる。
だから殿下は、“曖昧”のまま相手だけを縛りたい。
灰の司祭が、低く笑ったような気配を出した。
声にはしない。
けれど、目元がわずかに歪む。
(面白い)
そんな空気。
ルーカスが、とどめを差す。
「殿下」
「本件を公務として処理するのであれば」
「管轄不在のまま、平民を罪人として扱うことはできません」
「それは“記録に残る矛盾”になります」
記録官のペンが、止まらない。
レオンハルトは、ようやく顔から笑みを消した。
そして椅子の背にもたれ、冷たい声で言う。
「……では、こうしよう」
「その平民は“罪人”ではない」
「ただし――」
(条件を付ける)
「今後、王都において問題を起こした場合」
「責任は“誰が負うか”」
視線が、レナートに向く。
「伯爵家が負うのか?」
私は、内心で笑った。
(やっぱり、責任を押し付けに来た)
レナートが答えるより早く、私は口を開いた。
「殿下」
「責任を負わせたいのであれば、それもまた“公式の形”が必要です」
「保証文書、保護の範囲、期限、監督者――」
「そして何より」
私はゆっくりと目を上げる。
「殿下が昨夜“いつ来たことになっているのか”」
「そこが確定しない限り、条件の根拠が揺れます」
レオンハルトの頬が、ぴくりと引きつった。
(効いた)
この瞬間、私は確信した。
ローは“弱者”ではない。
この場をひっくり返すための、完璧な関節だ。
そして、次の一手は――
殿下がいちばん触れたくない場所。
“婚約”だ。
私は、礼式のまま静かに言った。
「殿下」
「本日の公務の議題が“整理”であるなら」
「もう一つ、整理されていないものがございます」
レオンハルトが、目を細める。
「何だ」
私は微笑んだ。
「――私と王家の婚約です」
室内が、凍った。
(宣言してない以上、婚約は生きている)
その一言を、私は公式の場で突き刺す準備をした。
次の瞬間。
レオンハルトの手が、机の上の紙を乱暴に掴んだ。




