第71話 殿下は、いつ来たことになっている
王宮の空気は、よく磨かれた石の匂いがした。
冷たいのに、隙がない。
どこを見ても「ここは王家の場所だ」と言っている。
呼び出しは公務だった。
使者の封印も、文面の文言も、逃げ道を潰すように整っている。
そして――その「整い方」そのものが、私には不穏だった。
(殿下が“舞台”を作った)
門をくぐったところで、最初に分けられた。
ロウは、私たちと同じ列には入れない。
「……平民は、こちらへ」
衛兵が淡々と告げる。
言い方は丁寧でも、線は引かれている。
ロウは一瞬だけこちらを見た。
何か言い返すでもなく、首をかしげるでもなく――ただ、状況を飲み込む顔。
ああいうところが、この子の厄介さで、強さだ。
「待ってろ」
レナートが短く言った。
声は低い。
命令じゃないのに、逆らえる空気ではない。
ロウは肩をすくめる。
いつもの、憎まれ口の代わりみたいに。
「……はいはい」
衛兵に導かれて、ロウは控えの間へ消えた。
扉が閉じる。
それだけで胸の奥が、ほんの少しだけ重くなる。
(“場にいない者”が、いちばん裁かれやすい)
私はそれを知っている。
現代でも、こっちでも。
案内役の侍従が、私たちを先へ進ませた。
廊下を抜け、階段を上がり、重い扉の前に立つ。
大太子――レオンハルトの執務室。
扉の前で、侍従が最後に釘を刺す。
「本日は公務の面会でございます」
「礼式に則り、入室ののち、順にご挨拶を」
(当然よね)
昨夜の「記録が残らない訪問」とは違う。
こちらは記録される。
残る。
そして残るものは、武器になる。
扉が開く。
執務室は、広かった。
机は一つ。
けれど席は複数。
椅子の配置からして、“対話”のための部屋ではない。
“裁き”のための部屋だ。
そして、揃っていた。
揃えられていた。
王家の記録官。
神殿側の連絡役らしき聖職者。
法務に関わる官吏。
そして、目立たないようで目立つ人物――ルーカス。
空気の端に、灰の司祭。
灰の司祭は、相変わらず目元しか見えない。
深い隈が、ローブの影より濃い。
眠いのか、疲れているのか、元からそういう顔なのか。
それなのに視線だけが鋭い。
“脳で生きている”という感じが、嫌になるほど伝わる。
そして中央。
椅子に座ったまま、こちらを見る男。
レオンハルト。
(座ったまま迎えるのね)
それだけで、今日がどういう場か分かる。
侍従が名を告げる。
「公爵家令嬢、クラリス・フォン・アルヴェーン様」
「伯爵家嫡男、レナート・フォン・ベルデンベルク様」
「――ほか関係者の皆様」
私たちは、礼式通りに進んだ。
公爵令嬢として、私は一歩前へ出る。
スカートの裾を摘み、深く礼。
言葉は滑らかに、温度は下げて。
「我が国の大太子殿下に、ご挨拶申し上げます」
「本日は、公務のお呼び出しと承り参りました」
レナートも続く。
伯爵家嫡男としての礼。
淡々として、隙がない。
「大太子殿下にご挨拶申し上げます」
「伯爵家嫡男、レナート・フォン・ベルデンベルクにございます」
場の全員が、儀礼が整うのを待っていた。
整った瞬間に、刃を振るうために。
レオンハルトは、ようやく口角を上げた。
愉快そうではない。
“優位に立った”という形だけを作った笑み。
「……よろしい」
「今日は、随分と礼儀正しいな」
わざわざ言う。
つまり、昨日を持ち出す気だ。
「昨夜は違った」
「私が直々に足を運んだにもかかわらず――」
「挨拶もない」
「礼もない」
室内の空気が、ゆっくり冷える。
(昨夜は“公務じゃない”のに、今その話を“公務の場”で言う)
矛盾を、権力で押し通すやり方。
でもこの部屋には、書記がいる。
記録官がいる。
残る。
ルーカスが、私より先に動いた。
一歩だけ前へ。
深くは出ない。
あくまで「関係者」の位置で、しかし言葉は真っ直ぐ。
「殿下」
「確認してもよろしいでしょうか」
レオンハルトが目を細める。
「何だ」
ルーカスは、声の調子を変えない。
「昨夜の訪問は、“公式”でしたか」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、室内の誰かが息を止めた。
レオンハルトは鼻で笑う。
「当然だ」
「私は王家の大太子だぞ」
ルーカスは頷いた。
同意ではない。
“受領”の頷きだ。
「承りました」
「では、本日の公務記録と同様に――」
「昨夜の公式訪問記録も、文書院に残っているはずです」
空気が、薄くきしむ。
レオンハルトの指が、肘掛けを軽く叩いた。
苛立ちを隠す癖。
「後で確認すればいい」
ルーカスは、そこで言い切らない。
追い詰めるのは、次の一手のため。
ただ、釘だけを刺す。
「はい」
「本日の記録は残ります」
「ですからこそ、昨夜も“残っている”はずだと――私は確認したく存じます」
(上手い)
この部屋のルールに従いながら、ルールで殿下を縛る。
私は、微笑んで続けた。
煽らない。
礼儀で刺す。
「殿下」
「昨夜が公式であれば、私たちは本日と同様に礼式に則りました」
「ですが昨夜は――」
私は言葉を一拍置く。
「“本日と同じ形式”ではございませんでした」
レオンハルトは椅子に深く座り直した。
自分が場を支配している、と見せたい動き。
「つまり、言いたいのは何だ」
私は視線を逸らさない。
「殿下が昨夜のことを“公式”として扱うなら」
「公式の裏付けが必要です」
「そして、公式でないなら――」
「その場で礼を求めるのは、筋が通りません」
記録官のペンが走る音が、やけに大きく響いた。
灰の司祭は何も言わない。
ただ、目元の隈の奥で、こちらを見ている。
面白がっているのか、冷めているのか。
判別がつかないのが、いちばん怖い。
レオンハルトの笑みが、少しだけ硬くなった。
「……なら、話を変えよう」
来る。
ここからが本題だ。
「公爵令嬢クラリス」
「君は一度、神殿に“問題視”された」
「君の力は――この国の秩序にそぐわない」
(“除名されていない”)
そこは、こちらの強み。
“されそうになった”が、“撤回された”。
つまり、神殿でさえ決め切れなかった。
レオンハルトは、そこでわざと間を作った。
周囲に視線を流す。
重鎮たちを、揃えた意味を見せつけるように。
「だからこそ、私は判断する」
「この件の“責任の所在”を」
そして、最後に。
昨日の余韻を混ぜて、私たちを揺らしに来る。
「――礼儀の欠如も含めて、な」
私は心の中で息を吐いた。
(ここからが、本番)
ロウは別室。
この場にいない。
けれど、私たちが守るべき中心は、確かにそこにいる。
扉一枚向こうの控えの間を思い浮かべながら。
私は、背筋をまっすぐにした。




