第70話 記録がないという武器
文書院の中は、外より冷えた。
石造りの壁が音を吸い、足音だけが小さく響く。
ここには涙の舞台がない。
あるのは紙と、印と、沈黙だけだ。
奥の机に通されると、職員が帳面を二冊置いた。
分厚い革表紙。
角が擦れている。
毎日開かれる“生活の記録”だ。
ルーカスが先に口を開く。
「昨夜の訪問について」
「“公式訪問”としての痕跡があるか、照会します」
職員は頷き、淡々と答えた。
「公式訪問であれば、最低でも三つ残ります」
「通行証の発行」
「随行の人数記録」
「宿泊または警備の受け入れ記録」
私は心の中で数えた。
(……三つどころか、もっとある)
公式なら、残りすぎる。
灰の司祭が、机の端に肘を置いた。
ローブの袖が紙に触れない位置。
その気遣いが、逆に気持ち悪いほど正確だ。
「で?」
灰の司祭が低く言った。
「ありますか」
職員が帳面を開く。
紙の匂いが立つ。
ペン先で行を辿り、静かに首を振った。
「……ありません」
「昨夜、王都門を“王家の名”で通した記録は存在しません」
「随行の名簿もありません」
「宿の受け入れ記録も、警備の割り当ても――ありません」
ルーカスが即座に確認する。
「門の“臨時通行”は?」
職員は首を振る。
「臨時なら、臨時で残ります」
「残っていません」
私は、息を吐いた。
(よし)
つまり。
昨夜のあれは――
公務ではない。
王太子の公式訪問ではない。
灰の司祭が、淡々とまとめる。
「結論」
「“王太子殿下としては来ていない”」
ルーカスが続ける。
「だから、礼儀を求めることもできない」
「公式に“面会した”とは言えない」
「神殿も、公式の処分理由にできない」
私は机の上の紙を見つめながら、静かに言った。
「……噂で『王太子が公務で来た』って盛りたい人は、盛れる」
「でも、記録がない」
「盛った瞬間、嘘になる」
ルーカスが頷いた。
「そして嘘は、記録で潰せます」
彼は職員に言う。
「照会結果の“写し”をください」
「形式は“照会に対する回答書”で」
「押印も」
職員は、淡々と紙を引き寄せた。
ペンが走る音だけが響く。
この音が、涙より強い。
灰の司祭は、ローブの奥で小さく笑った気がした。
「ほら。燃料が抜けた」
「昨夜を“公務”にできない」
「できないから、次は別の手で来る」
「政治で殴る」
私が言うと、灰の司祭は頷いた。
「ええ。政治で殴る」
「記録がないと分かった以上、“記録を作りに来る”」
ルーカスが淡々と言う。
「つまり、次は“公式の場”に引きずり出す」
「神殿前。宮廷。あるいは社交会」
「舞台の用意をする」
私は、袖の中の境界紙を押さえた。
熱が少しだけ返る。
まるで「その通り」と言いたげに。
灰の司祭が、机の上の帳面を指先で軽く叩いた。
「ここでひとつ、追加の照会」
「昨夜、誰が“私的に”通ったか」
「王家の名ではなく」
「個人の名で」
職員の眉が動いた。
「……個人の通行は、基本は残りません」
「ただし、門番が“異常”を記録した場合は別です」
職員は別の薄い帳面を取り出す。
「警戒日誌です」
「“変だと思ったもの”だけ書く」
ルーカスが、目を細めた。
「それが、生活線の最後の砦ですね」
ページがめくられる。
紙の擦れる音が、心臓の音みたいに聞こえた。
職員が、指を止めた。
「……あります」
私は黙って、息を止めた。
職員が淡々と読む。
「『夜半、黒衣の一団。人数少数。身分表示なし。馬車一。止められる気配なし』」
「『護衛は“王家”の標準ではない。だが、門番が声を掛けられない圧がある』」
「……以上です」
ルーカスが小さく頷く。
「“王太子の公務”ではない」
「でも、“王家の圧”はある」
「つまり――」
灰の司祭が、先に言った。
「王の目が入っている」
その一言で、空気が変わった。
王が見ている。
静観している。
そして――必要なら止める。
私は、心の中で笑った。
(ああ、やっぱり)
ここで、灰の司祭がぽつりと言う。
「王太子は、自分が見られているのを知っている」
「だから“公務”では動けない」
「私行で暴れて、記録は残さない」
「でも、噂だけは残したい」
「――矛盾です」
ルーカスが低く言う。
「矛盾は、崩せます」
「写しを取って、市場に置きますか」
灰の司祭が頷く。
「市場は生活。神殿前は舞台」
「生活に置けば、涙は燃えない」
私は、職員が差し出した“回答書”の写しを受け取った。
押印が重い。
紙一枚なのに、重い。
(これが武器だ)
扉を出ると、王都の音が戻ってきた。
馬車。
呼び声。
生活のざわめき。
私の背後で、灰の司祭が低く言った。
「さて」
「次は、向こうが“公の場”を作りに来る」
「あなたは、そこに“紙”を持って行く」
私は頷いた。
「泣き舞台を、事務で冷やす」
灰の司祭の目元のくまが、少しだけ歪んだ。
笑ったのかもしれない。
「ええ」
「それが、私の仕事です」




