第69話 灰の司祭の仕事
宿を出た途端、王都の空気はまた変わった。
人が多い。
目が多い。
そして――話が多い。
昨夜の“私的訪問”の余韻が、街に薄く残っている。
あれは公式じゃない。
だからこそ、噂にしやすい。
(……燃えやすい)
ルーカスは何も言わず、私の半歩前を歩く。
彼の歩き方は、いつも最短だ。
迷わない。
迷わないというより、迷う余地を先に潰している。
「今日の動線は?」
私が聞くと、ルーカスは即答した。
「“舞台”を避けます」
「神殿前は通りません」
「市場も、今日は入りません」
「代わりに、記録の線を辿ります」
記録。
それは、泣き落としが一番嫌う言葉だ。
路地を曲がる。
王都の石畳は硬くて、音がよく響く。
足音の反響が増えるほど、心が落ち着くのが不思議だ。
音がある方が、嘘が減る。
小さな文書院が見えた。
神殿でも王宮でもない。
どちらにも属さない“帳面の場所”。
ここに来るだけで、泣き落としの舞台は半分死ぬ。
入口の前で、ルーカスが立ち止まった。
その瞬間――
影が、ひょこっと現れた。
「おはようございます」
声は低い。
ローブの奥から響くような声。
一人称は、私。
その“私”は、感情の温度を薄くする。
灰の司祭。
顔は見えない。
見えるのは目元だけ。
そこに――がっつりと、くま。
寝不足のくまというより、目を酷使しすぎたくま。
“脳で生きてる”人間の証拠みたいに。
「……お久しぶりです」
私が言うと、灰の司祭は頷いた。
「ええ。お久しぶりです」
「あなたは変わりましたね。燃えなくなった」
私は息を吐いた。
褒め言葉に聞こえないのが、この人だ。
ルーカスが口を開く。
「来るなら、合図くらいください」
灰の司祭は、あっさり言った。
「合図したら、面白くないでしょう」
(うわ、出た)
ルーカスの眉がほんの少しだけ動く。
その反応が、灰の司祭にとっては娯楽らしい。
「今日、何をしに?」
私が聞くと、灰の司祭は指先を軽く動かした。
ローブの袖から紙束が出る。
紙束。
しかも薄い。
持ち歩ける量だけ。
「仕事です」
「あなたが嫌いなやつです」
「記録です」
嫌いなやつ、は余計だ。
灰の司祭は淡々と続ける。
「王都で勝つには、火を消す水が要る」
「水は、感情じゃなくて記録です」
ルーカスが、ほとんど同じことを言う人間だと気づいている顔をした。
灰の司祭は、その顔を見て嬉しそうに見えるのが腹立つ。
「……で?」
私が促すと、灰の司祭は紙束を一枚だけ抜いた。
「昨夜の訪問」
「公式ではない」
「だから“儀礼”も“称号”も出せなかった」
「でも――噂は出ます」
私は頷いた。
「出るね」
「出させていい噂と、出すと死ぬ噂があります」
灰の司祭が言う。
「出させていいのは、『会いに来た』」
「出すと死ぬのは、『取り引きした』」
“取り引きした”にされると、こちらが公式の線に引きずり出される。
公式に引きずり出された瞬間、泣き落としの舞台になる。
灰の司祭は紙を見せずに、指で叩いた。
「だから、先に“線”を引く」
「あなたは今、文書院に来た」
「これは――生活線です」
生活線。
市場と同じ。
生活の舞台は泣き落としが弱い。
泣いても、パンの値段は下がらないから。
そのとき、文書院の入口から職員が出てきた。
年配の男だ。
目は鋭いが、声は淡々としている。
泣かない職業の声。
「本日は何用で?」
職員が言う。
ルーカスが即座に答えた。
「照会です」
「記録の照会」
職員は、私の顔を見てから、灰の司祭を見た。
一瞬だけ、固まる。
灰の司祭は何もしない。
名乗らない。
礼もしない。
ただ、見返す。
職員が咳払いをして、視線を逸らした。
――分かってしまったのだ。
このローブの中身が、ただ者じゃないと。
(名前を出さないのに、通る)
(嫌な強さだな)
灰の司祭が、低く言った。
「形式は、要りません」
「今日の照会は“公”ではない」
職員が硬い声で頷く。
「……承知しました」
背後から、わざとらしい声が飛んだ。
「まあ、クラリス様?」
「あら、こんなところで」
「さすが……罪を犯した方は、こういう所がお好きなのですね」
セレスティナの取り巻きの女。
白い花みたいに笑って、毒を吐くやつだ。
神殿の舞台に立てないから、生活線で殴りに来た。
私は振り返り、笑わなかった。
笑うと燃える。
燃やしたいのは相手だ。
取り巻き女が続ける。
「昨夜も、殿下に――」
「照会中です」
ルーカスが、淡々と切った。
「私語は外で」
取り巻き女がムッとする。
「あなた、誰に向かって――」
そこで灰の司祭が、低く言った。
「ここは記録の場所です」
「泣く場所ではありません」
取り巻き女が一瞬、言葉を失う。
泣く場所ではありません、が刺さったのだ。
この女は、泣けば勝てる世界でしか呼吸していない。
それでも女は引かない。
「でも……昨夜は」
「殿下が、クラリス様のために……」
灰の司祭が、淡々と告げる。
「昨夜は“私的訪問”です」
「公的な記録は残りません」
「残らないものを、証拠にするのは無理です」
女の顔が引きつった。
“残らない”と言われた瞬間、武器が消える。
噂で殴れない。
証拠がないからだ。
ルーカスが追撃する。
「それより――あなたのその発言、誰の記録です?」
「神殿の誰が、何を見て、どう記録した?」
「記録がないなら、ただの噂です」
取り巻き女は、口を開けたまま閉じられない。
(出た、ルーカスの職能)
彼は笑わない。
感情で殴らない。
“記録”で殴る。
灰の司祭が、最後に一言だけ足した。
「噂で燃やしたいなら、神殿前でどうぞ」
「ここでやると、あなたが恥をかきます」
取り巻き女は、何も言えなくなった。
恥をかく。
神殿の女は、それだけで死ぬ。
顔色を変えて、逃げるように去っていく。
私は小さく息を吐いた。
(……スカッとした)
(でも、これが“勝ち方”なんだ)
灰の司祭が、こちらに視線を寄越した。
くまの奥の目が、少しだけ細くなる。
「ほら、言ったでしょう」
「舞台をずらせば、涙は弱い」
ルーカスが、嫌そうに言う。
「同じこと、僕も言ってます」
灰の司祭は、ちょっとだけ楽しそうに言った。
「ええ。だから今日は、あなたが退屈そうなんです」
ルーカスの眉がまた少し動いた。
そのとき、袖の中で境界紙が熱を返した。
久しぶりの、熱。
私は反射で指先を押さえた。
『次:王都の線引き
目的:泣き舞台の無力化/記録の確保
準備:照会/写し/保管』
私は、笑いそうになった。
(ほんとに、現代の炎上対策みたい)
灰の司祭が、ぽつりと言う。
「……境界が動いた」
私は顔には出さず、紙の熱だけで頷いた。
この人は、見なくても分かる。
見えるのは目元だけなのに、いろいろ見えている。
灰の司祭は、ローブの袖の奥で紙束を整えた。
その仕草が、妙に疲れている。
「今日は、どこまで?」
私が聞くと、灰の司祭は一瞬だけ止まった。
「……本当は、今日は何もしない日でした」
「脳が拒否する日です」
「書類を見たら、吐き気がする日」
ルーカスが、真顔で言った。
「休めばいい」
灰の司祭は、間髪入れずに返す。
「休むと、世界が面白くない」
「だから、やります」
(嫌な人だな)
でも、頼れる。
悔しいけど。
灰の司祭は、最後に言った。
「王太子は、次は政治で殴る」
「あなたは、紙で受けて流す」
「そして――」
「泣き舞台が来る前に、“椅子”の話を一度だけ確認しましょう」
椅子。
王太子位。
婚約の正体。
私は、頷いた。
今はまだ、刺さない。
刺すのは、相手が「既成事実」を振り回し始めたとき。
文書院の扉が開いた。
職員が、淡々と告げる。
「照会の準備が整いました」
私は一歩、前へ出た。
舞台ではなく、帳面の前へ。
(よし)
(燃料を奪う)
(物語を“完成”させるために)




