第66話 折り返し
王都へ戻る道は、行きよりも重い。
空が低く、雪の気配が混じっているせいだけじゃない。
“向こうが動く”と分かったからだ。
私は馬車の窓から街道の先を見た。
見慣れたはずの道が、今日は少しだけよそよそしい。
「ここから先は、検問が増えます」
隣の男が淡々と言う。
公爵家の書き物を一手に担う、あの書記官だ。
剣を持たない代わりに、紙で人を動かす。
(この人、紙が絡むと呼吸が整うのよね)
ロウは毛布を肩に掛けたまま、膝を抱えている。
足の痛みは引いてきたはずなのに、目だけは忙しい。
外を、音を、匂いを。
全部拾っている。
レナートは言葉少なに窓の外を眺めていた。
金髪のせいで光を受けやすいのに、今日はどこか影が濃い。
怒りを沈めたまま、底に置いている顔。
「検問って、面倒だな」
ロウがぼそっと言った。
「面倒です」
書記官は即答した。
「ですが、面倒な時ほど“形式”が盾になります」
私が笑いそうになった、その時。
街道脇の森から、黒い影がひとつ、すっと出てきた。
――出てきた、というより。
最初から“そこにいた”みたいに。
灰の司祭だった。
頭から足先まで、ローブ。
目元だけが見える。
目元だけが見える。
……そして、目の下に濃い隈。
寝不足の隈じゃない。
目を酷使して、削れた隈だ。
「遅かったですね」
声は低い。
抑揚もない。
初めて会った時と同じ――はずだった。
なのに、今日はほんの少しだけ違う。
(……目が、笑ってる気配がする)
ロウが一瞬だけ固まって、舌打ちした。
「……あ」
「前にもいた」
私が目を瞬くと、ロウは顎で司祭を指した。
「誘拐の時」
「敵の中に混ざってたやつ」
「……こいつ、何なんだよ」
灰の司祭は、目だけ細くして頷く。
「何でしょうね」
ロウの眉が跳ねる。
「そこで肯定しねぇの、余計ムカつく」
レナートの視線も落ちる。
敵か、味方か。
判断がつくまでの無音。
書記官が先に口を開いた。
「こちら側です」
「正確には、“こちら側にいることもある”」
ロウが眉をひそめる。
「は?」
書記官は、淡々と補足した。
「彼は最初期に一度、手を貸してくれました」
「書式と、記録の残し方を」
ロウが吐き捨てる。
「へぇ。味方なの?敵なの?」
「両方です」
書記官は平然と言った。
「だから、警戒したままでいい」
私の背中に、冷たい納得が落ちた。
(そう。警戒したままでいい相手)
灰の司祭は、私の思考に気づいたみたいに、ぽつりと言う。
「嫌われましたね」
声は低いのに、どこか楽しそうだった。
「……今日は、良い日です」
レナートが一歩前に出た。
声は静かだが、刃が混じる。
「貴方は、何のために来た」
灰の司祭は首を傾けた。
「順番の確認です」
「それと――」
一拍。
「王都の匂いが濃くなってきました」
その言い方が、少しだけ軽い。
興味が混じる。
書記官が手元の紙束を軽く叩いた。
「検問で止められる要素は、今はありません」
「通常通過でいい」
「……いいですね」
灰の司祭は答えた。
“いいですね”と言いながら、命令の気配がない。
お願いでもない。
ただ、事実を言うみたいに。
私たちは検問所の前まで進んだ。
木の柵。
槍を持った兵。
視線が揃って、こちらを見る。
「止まれ!」
兵が声を張る。
「身分と目的を――」
書記官が書類を差し出した。
公爵家の封蝋。
旅券。
施療所の同行許可。
形式の束。
兵は受け取って、ざっと目を走らせた。
「……公爵家の使者か」
声の温度が一段下がる。
「失礼した。通れ」
柵が開く。
私たちは、街道へ戻った。
――空気が一段、軽くなる。
張り詰めていた糸が、ほどけた瞬間の“余白”。
無駄話ができる環境が、やっと戻ってくる。
その時だった。
ロウの視線が、ほんの一瞬だけ横へ逸れた。
通りの端で、赤子を抱いた夫婦が笑っている。
ロウは足を止めないまま、ただ一度だけ、その手元を見た。
(……見た。今までなら、見なかった)
敵を数える目じゃなくて、生活を測る目。
(あの歌のせいか。少しずつ、戻ろうとしてる)
私はそれ以上を考えないまま、前を向いた。
余白は短い。
舞台に入れば、また息を奪われる。
灰の司祭は、まるで私の思考を読んだみたいに、ぽつりと言った。
「外門は、生活です」
「内門は、舞台です」
それだけ言って、影の方へ下がった。
帰る、という動作すら見せずに。
ひょい、と。
世界の端に溶けるみたいに。
私は思わず、書記官の横顔を見た。
(この人も、この司祭も――“内門”を知ってる)
書記官は私の視線に気づいて、淡々と告げる。
「王都では、順番を間違えないでください」
「怒りで先に動くと、紙が追いつきません」
ロウが鼻で笑った。
「じゃあ、紙が追いつくまで殴んなってこと?」
書記官は瞬きひとつしない。
「殴るのは最後です」
レナートの目が、ほんの少しだけ動いた。
私はそれを見て、内心でため息をつく。
(殴るのは最後。うん。たぶん、最後)
王都が近づく。
舞台が近づく。
次は、私たちの番だ。




