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第65話 王都は紙の国

馬車が揺れた。


石畳の継ぎ目を踏むたび、車輪が小さく跳ねる。


窓の外はまだ朝の匂いが薄くて、遠くの畑に霧が残っていた。


ロウは座席の端に、妙に行儀よく座っている。


足の痛みを隠しているのが分かる。


分かるのに、本人は平気な顔をしている。


「なぁ」


唐突にロウが言った。


本当に、何も考えていない声だった。


「そういや先生ってさ、余計に触んないよな」


私は瞬きを一つする。


レナートは、返事をしない。


しないけれど、目だけがロウを見た。


ロウは続ける。


「なんつーの……」


「他の大人って、普通にやるじゃん」


「頭こづくとかさ、背中パーンって叩くとか」


「おい、しっかりしろ、みたいな」


「結構雑に扱うんだよな」


ロウは肩を竦めた。


からかっているわけじゃない。


ただ思いついたことを口にしているだけだ。


「先生、そういうの一切ねぇもんな」


「治療の時は別だけど」


レナートが、ようやく口を開いた。


声はいつも通り低くて、淡々としている。


けれど、ほんの少しだけ硬い。


「……必要ないからだ」


それだけ言って、レナートは視線を窓の外へ戻した。


会話を終わらせる仕草。


線を引く仕草。


ロウは「ふーん」と鼻を鳴らした。


その鼻音は、納得じゃなくて——興味だ。


「へぇ」


「じゃあ先生、必要な時っていつだよ」


私は笑いそうになるのを堪えた。


ロウは自分が何を投げたのか分かっていない。


分かっていないから、無邪気に追い打ちをかける。


レナートは答えない。


答えない代わりに、ロウの足元――少しだけ沈む布の影を一瞥する。


すぐに目を戻す。


「余計な話をするな」


短い。


いつもの調子。


ロウは口を尖らせた。


「余計じゃねぇだろ」


「……まあいいけどさ」


馬車がもう一度揺れる。


ロウは窓の外に目を向けた。


さっきの話を忘れたように。


私は、あえて拾わなかった。


拾えば、ロウは気づく。


気づかせる必要はない。


気づかないまま、前に進めばいい。


それでも、空気は確かに少し変わった。


触れないという線。


触れないことで守っているという事実。


それを、ロウが“雑談”として口にしたこと。


王都へ向かう道の上で、私たちはまた一つ、戻れない場所を通り過ぎた。


やがて、景色が変わる。


畑が減り、道が太くなる。


荷車の数が増え、馬の蹄の音が重なる。


遠くに、灰色の城壁が見えた。


王都だ。


「門が見えました」


ルーカスが小さく言う。


馬車の中の空気が、また一段階固くなる。


「会話は最低限に」


「視線は合わせない」


「門で止められても、口を出さない」


「僕が話します」


私は頷いた。


ロウも「へいへい」と返す。


軽い返事のくせに、目が一瞬で変わった。


出口を読む目だ。


人の流れ、立ち位置、武器の位置。


スイッチが入ると、ロウは静かになる。


感情が薄くなる代わりに、情報が濃くなる。


レナートは何も言わない。


言わないまま、いつも通り廊下側――馬車の出入口側に寄った。


触れない。


でも守る位置。


あの立ち方は、もう癖だ。


馬車が門前で止まった。


「止まれ」


兵の声。


金属の音。


旗のはためき。


ルーカスが窓を少しだけ開ける。


冷たい空気が差し込んだ。


「公爵家の使者です」


「監察庁に提出する記録があります」


声が平らで、強い。


兵が覗き込む。


視線が私に、そしてレナートに、最後にロウへと移る。


ロウの赤い髪が視界に入った瞬間、兵の目が僅かに止まった。


(目立つ)


分かっている。


分かっているからこそ、今ここにいる。


兵は封筒に目を落とし、封蝋の双頭の鷲を見た。


態度が変わる。


露骨に、変わる。


権威は、こういう時に便利だ。


「通れ」


「王都では騒ぎを起こすな」


ルーカスが淡々と頷く。


「承知しています」


門を抜ける。


城壁の影が一瞬だけ馬車を覆い、それが途切れた瞬間、街の匂いが押し寄せてきた。


香辛料。


汗。


焼いた肉。


馬糞。


生活の匂い。


市場の匂い。


王都は、いつだって“生きている”。


そして、生きている場所ほど、噂も早い。


「……うわ」


ロウが小さく言った。


「臭ぇ」


言い方は雑なのに、目は落ち着いている。


人の流れを読む目。


「臭いのは“情報”も同じよ」


私が言うと、ロウが首を傾げた。


「は?」


「噂って、だいたい腐ってる」


「……あー」


分かったような分からないような返事。


馬車は裏道へ入った。


大通りを避ける。


目立つから。


人の感情は舞台を探す。


舞台に乗せた瞬間、負ける。


監察庁の建物は、城壁の内側にあるのに、神殿とは離れた場所にあった。


石造りで、窓が小さい。


門番の目が冷たい。


紙の匂いがする。


「降ります」


ルーカスが先に降りる。


私も続く。


足を踏み出す瞬間、ロウが僅かに顔をしかめた。


見逃さない。


でも、止めない。


レナートが降りた。


その動きが、無駄なく綺麗だ。


白い手袋が光を拾う。


黒い外套が朝の光を吸う。


この男は、目立つ。


目立つくせに、目立つのを嫌っている。


矛盾しているのに、成立している。


(レオンハルトが嫌うわけだ)




監察庁の中は静かだった。


紙の音だけがする。


ペンが走る音。


乾いた咳。


そして、こちらを見る目。


「提出だ」


ルーカスが封筒を差し出す。


監察官が封蝋を確かめる。


双頭の鷲。


公爵家の印。


次に、別の印――王都門番詰所宛の控え。


そして、最後の一通。


「念のため」


ルーカスの声が小さい。


監察官は何も言わず、受け取った。


沈黙が落ちた。


夜明け前の冷たい沈黙。


紙の音だけが聞こえる。


監察官がペンを走らせる音が、やけに大きい。


施療所の奥から、低い声が響いた。


レナートだ。


怒りを抑えた声。


「……ロウは、誰の管轄だ」


一瞬だけ、空気が止まった。


「出た」


ロウが小さく息を吐くように言った。


笑っているわけじゃない。


いつもの確認が来た、という合図みたいな声。


ルーカスが紙を取り出す。


動きに迷いがない。


まるで、それが手順の一部みたいに。


「公爵家預かり」


「医療判断はあなた」


「指揮は僕が繋ぎます」


ロウの表情から、さっきの軽さが消える。


「……了解」


監察官がペン先を止めたまま、こちらを見た。


「その“公爵家預かり”というのは、監察庁の記録上の扱いか?」


ルーカスが即答する。


「はい」


「名義は公爵家」


「同行者としてのロウは、医療補助」


「傷病者としてのロウは、医師の管理下」


「それをここに記録して下さい」


監察官は視線を落とし、紙をめくる。


「……王都に入った以上、治安維持は王都警備隊だ」


「ただし――」


「ただし?」


私が言うと、監察官は一枚の書類を指で弾いた。


「“侯爵家の紋章下”の没落貴族が絡んでいる」


「殴られた側が、その筋に訴えた」


「殴った側が――伯爵家の嫡男」


レナートの眉が僅かに動いた。


ロウが小さく舌打ちした。


「ちっ……」


監察官は続ける。


「表向きは『揉め事』で済ませられる」


「だが、相手が相手だ」


「侯爵家は、名分を探す」


「名分があれば、王都で何でもできる」


ルーカスが淡々と言う。


「なら、名分を潰す」


「先に、指揮系統で刺す」


監察官が目を細めた。


「……公爵家は動くのか」


私は答えた。


「動く」


「もう動いてる」


その時だった。


部屋の隅の影が、ふっと濃くなる。


「いいね」


聞こえたのは、笑いを含んだ声。


軽いのに、背筋が冷える声。


灰の司祭が、いつの間にか壁際に立っていた。


頭からつま先まで灰色のローブ。


目元だけが覗く。


その目が、楽しそうに細まっている。


「面白いところに来た」


「王都は“紙”の国だ」


「紙は剣より速い」


ルーカスが一瞬だけ目を見開き、すぐに平静に戻る。


私も息を吐いた。


(いつもそう)


(出てくるなら、気配ぐらい出してよ)


灰の司祭は、私を見た。


次にレナートを見る。


最後にロウを見る。


「そして君たちは、いま“物語”を完成させる位置にいる」


監察官が顔をしかめた。


「誰だ」


灰の司祭は肩を竦める。


「通りすがり」


「――ただの、観客」


ルーカスが言う。


「観客は席に戻ってください」


「邪魔です」


灰の司祭は笑ったようだった。


「邪魔しないよ」


「むしろ、整える」


彼は一歩だけ前に出て、机の上の書類を指先で――触れない距離で示した。


「君たちが次に刺すのは、噂じゃない」


「感情でもない」


「指揮系統だ」


その言葉が落ちた瞬間、部屋の温度が一段下がった気がした。


灰の司祭は続ける。


「王太子は“政治”で殴りに来る」


「聖女は“涙”で燃やしに来る」


「侯爵家は“名分”で喉を切りに来る」


「君たちは――紙で防げ」


ルーカスが頷く。


「出来ます」


「僕が書く」


灰の司祭は、次にレナートを見る。


「君は?」


レナートは低く言った。


「……医者として来た」


灰の司祭の目が細くなる。


「医者として、ね」


「でも君はもう知っている」


「ここから先は、“医者だけ”じゃいられない」


レナートは答えない。


答えないまま、ほんの僅かに視線を落とした。


ロウの足元へ。


痛みを隠している、その位置へ。


それだけで十分だった。


私は口を開く。


「つまり、王都では――」


灰の司祭が頷く。


「舞台はここ」


「そして次は国境の向こう」


「君が口にした“追放”が、別の形で完成する」


「完成したところを、条文で消せ」


軽い言い方。


でも内容は鋭い。


ルーカスが息を吐いた。


「準備は出来ています」


「公爵は“次の場所”の手配を終えています」


私は頷いた。


ロウがきょとんとした。


「……次の場所?」


「聞いてねぇ」


その反応に、私は少しだけ心が痛んだ。


でも、今は言えない。


言えば、ロウはまた一人で動く。


時間がない。


敵は待ってくれない。


ロウは一瞬だけ眉を吊り上げた。


「……なんでだよ」


その怒りは短い。


湧いて、すぐに引っ込める。


息を吐いて、飲み込む。


さっぱりした性格が、ここでは救いになる。


「……まあいい」


ロウはため息を一つで終わらせた。


「俺が今知ったってことは、俺が知らなくていいってことだろ」


ルーカスが微かに目を細めた。


レナートは、何も言わない。


言わないけれど、立ち位置が少しだけ前に出た。


触れないまま、盾になる位置。


私は思う。


ロウは、強い。


強いからこそ、危うい。


そしてそれを、私たちは知っている。


灰の司祭が満足げに頷いた。


「いい」


「そのまま行け」


「君たちは、やっと“完成”に向かっている」


そう言い残して、灰色のローブが影へ溶けた。


来た時と同じ。


いなくなる時も同じ。


気配だけが残る。


監察官が咳払いをした。


「……話は終わりか」


ルーカスが封筒の控えを受け取り、淡々と言う。


「終わりません」


「ここからが始まりです」


私は頷いた。


「始めましょう」


王都は、紙の国だ。


紙は剣より速い。


そして涙より冷たい。


なら、こちらは紙で戦う。


外へ出る。


朝の光が眩しい。


王都の匂いが濃い。


ロウが歩き出す。


痛みがあるはずなのに、歩幅は崩れない。


レナートが一歩前に出て、廊下側ではなく――通り側に立つ。


触れないまま、守る位置。


私は息を吐いた。


ここから先は、医者の顔だけでは進めない。


令嬢の顔だけでも進めない。


少年の顔だけでも進めない。


全員で、紙と線で、完成させる。


王都へ。


そして、国境の向こうへ。


物語を“完成させる”ために。

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