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第64話 出立の音



夜が明ける前から、宿の中は落ち着かなかった。


廊下を軋ませる靴音。


荷を引きずる音。


湯を沸かす音。


昨日までの私たちの言葉――「王都へ」という宣言を、現実の形に変えていく音だ。


私は窓辺で息を吐いた。


ガラスの向こうはまだ暗い。


国境の向こうの匂いはしない。


けれど、もう戻れない空気だけが先に来ている。


「クラリス様」


ルーカスが声を落とす。


机の上には封筒が三つ並んでいた。


黒い封蝋に、双頭の鷲。


公爵家の印。


それだけで背筋が伸びる。


力が形を取ると、こういう顔をする。


「馬車は二台」


「護衛は公爵家の印で通します」


「王都に入ったら、まず監察庁に記録を提出」


私は頷いた。


「神殿前ではやりません」


ルーカスは淡々と言う。


「“感情の舞台”ですから」


「市場は生活、だったわね」


「はい」


ルーカスは封筒を一つ手に取った。


「これは監察庁宛」


「これは王都門番詰所宛」


「これは――念のため」


「念のため?」


「王が見ている、という証拠になります」


私は小さく息を漏らした。


見ているからこそ、今は動かない。


動かないからこそ、必要な瞬間に動ける。


王の沈黙は、ただの無関心じゃない。


“判断の保留”だ。


廊下の向こうで椅子が擦れる音がした。


私はそちらに視線を投げる。


ロウがいた。


顔はいつも通りだ。


いや、いつも通りに見せている。


目は動く。


出口と人の数、影の位置。


一度なぞってから、ようやくこちらを見る。


「……行くんだろ」


ぶっきらぼうな声。


その声だけが子どもっぽい。


廊下側に、レナートが立っている。


窓側じゃない。


人が通る側。


外から来るものを受ける位置。


触れないのに、守る。


この男は、そういう立ち方をする。


「ロウ」


レナートが呼ぶ。


短い呼び方。


感情を混ぜない呼び方。


「座れ」


ロウが眉をひそめた。


「……立てる」


「立てるかどうかじゃない」


「座れ」


ロウは舌打ちしそうになって、やめた。


「……へいへい」


椅子に腰を下ろす。


その途中で、足に少しだけ重みがかかって、口元が一瞬歪んだ。


痛みはある。


それでも、言わない。


言えば止められるのを分かっている。


レナートは小さな革袋を机の端に置いた。


薬包、布、消毒瓶。


道具は揃っているのに、無駄に触れない。


必要な時だけ。


その線を、彼は守っている。


「包帯は夜に替える」


レナートが淡々と言う。


「滲んだ時だけ例外だ」


ロウが目を瞬かせた。


「……毎回替えるんじゃねぇの」


「替えない」


「理由がある時だけだ」


冷たい声。


けれど、その冷たさは距離のためじゃない。


線を引くためだ。


ロウは納得したふりをして視線を逸らした。


「……へぇ」


厨房の方から、湯気の匂いが流れてきた。


焼いたパンの匂い。


薪の匂い。


生活の匂いだ。


ロウが、ふっと鼻を動かした。


ほんの一瞬。


いつもなら、出口に戻る目が――匂いの方へ向いた。


ただ、それだけのこと。


なのに、レナートの視線が僅かに止まった。


ロウは気づいていない。


自分が今、いつもと違う動きをしたことに。


腹が減っただけだと思っているのだろう。


「……昨日の歌」


ロウが小さく言った。


誰に向けたのかも曖昧な、小さな声。


「……あれ、どこで聞いたんだろ」


すぐに言い直す。


「……気のせいだ」


自分で打ち消す癖。


まだ抜けていない。


レナートは答えない。


慰めもしない。


けれど、声だけで支える。


「呼吸」


ロウが鼻で笑った。


「……今は別に、荒れてねぇ」


「荒れる前に戻せ」


「……うっせ」


そう言いながら、ロウは一度だけ息を吐いた。


長く。


それだけで空気が少し軽くなる。


私は気づく。


ロウは“合図”を覚え始めている。


助けを呼ぶためじゃない。


自分を戻すための、短い言葉を。


ルーカスが封筒をまとめ、荷の確認を終える。


「出立は一刻後」


「王都門を抜けるまで、会話は最低限に」


「神殿の裏口担当は、王都で刺します」


私は頷いた。


「刺しましょう」


「泣く舞台じゃないところで」


廊下の影が揺れた気がした。


灰色のローブは見えない。


あの男は、いる時もいない時も同じだ。


必要な時にだけ、現れる。


ロウが立ち上がった。


痛みが走っているはずなのに、歩幅は崩さない。


レナートが一歩前に出て、廊下側に立つ。


触れないまま、先に立つ。


ロウはそれを見ていないふりをして、ちゃんとついてくる。


私は扉の前で振り返った。


宿の中の匂い。


湯気。


封蝋の重み。


そして、耳の奥に残る歌の断片。


その両方が、私たちを次の場所へ押す。


王都へ。


そして、国境の向こうへ。


物語を“完成させる”ために。

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