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第63話 歌の断片と、紙の刃


夜が明ける前。


宿の廊下は冷たく、足音さえ遠慮がちになる。


灯りの下で、公爵家の監察官が紙を広げた。


机の上には、押収した布袋。


中身は噂の台本。


同じ言い回しが、同じ順番で並んでいる。


正義の燃料を、手順化した紙束だった。


ロウは壁際に立っていた。


腕の外側に巻かれた布が、白くきちんと結ばれている。


血はもう止まっている。


痛みも、本人の顔からは読めない。


でも、彼の指先だけが、時々わずかに動いた。


何かを数えるみたいに。


それが落ち着き方なのだと、私はようやく分かってきた。


レナートは椅子に座っている。


背筋は崩さない。


視線は低く、声はもっと低い。


怒りを見せないのに、空気が尖る。


あの人が黙っている時が一番怖い。


誰よりも理性的に、誰よりも容赦がないからだ。


監察官が咳払いをして、書式を整えた。


「――取り調べを開始します」


女が椅子に座らされている。


昨夜、神殿裏口の配達線で捕えた女だ。


顔色は悪いのに、目だけはまだ強い。


彼女は“正義”に守られているつもりでいる。


「名前」


「……名乗る必要があるの?」


「あります」


監察官は淡々と答えた。


「あなたは“奉仕”の名で動いていた」


「奉仕は、記録の対象です」


女は一瞬だけ唇を噛み、吐き捨てた。


「……エミリア」


ルーカスが机の端でペンを取った。


姿勢が綺麗すぎて、逆に冷たい。


あの人の“綺麗さ”は優しさじゃない。


秩序の形だ。


監察官が続ける。


「布袋の中身を確認した」


「噂の文言が一致している」


「受け取った場所」


「……神殿」


「誰から」


女は口を閉ざした。


そこは線だ。


越えれば、自分が守られていないと分かってしまう線。


監察官が一段、声の温度を下げる。


「受け取った相手の名を言いなさい」


女は震える。


それでも口を開く。


「……神殿の、裏口の」


「“白衣の奉仕”だって」


「名前は……呼び名しか知らない」


「皆、“白布”って言ってた」


ルーカスのペンが走る。


「白布は役職名です」


「人名ではない」


灰の司祭が軽く肩をすくめる。


「役職名で十分だよ」


「役職は組織の牙だ」


「牙の根元を辿れば、口に行く」


公爵が言う。


「神殿の裏口担当が、誰の命で動いているかを洗えばいい」


ルーカスが頷いた。


「はい」


「洗えます」


「記録が残っている場所がある」


私は眉を寄せる。


「神殿が渡すと思う?」


ルーカスは、少しだけ笑った。


氷みたいな笑み。


「渡させます」


「紙は、奪うものではなく、出させるものです」


灰の司祭が机を指で叩いた。


「王太子が騒ぐね」


「“治安維持”って言い張る」


「自分の手で火を付けて、消火権を主張する」


「典型だ」


私は唇の端を上げた。


「じゃあ、消火権ごと奪う」


「こちらは指揮系統で刺す」


監察官が頷き、紙を揃える。


「――供述は記録しました」


「拘束は公爵家の権限で継続」


「明朝、王都へ連絡を入れます」


その一瞬。


廊下の奥から、誰かが鼻歌を落とした。


宿の厨房の方だ。


湯を沸かす音。


薪が爆ぜる音。


生活の音に混じって、古い旋律が滑り込む。


私は一瞬、耳を疑った。


祈りじゃない。


子守歌とも違う。


働く者が、何気なく口ずさむ歌。


言葉は聞き取れないのに、妙に形がある。


跳ねる語尾。


沈む二拍目。


そんな癖だけが、ひっかかる。


ロウの目が、ふっと止まった。


追跡の時に入った“無”とは違う。


もっと奥の、何かが反応する止まり方。


たった一拍。


その一拍のあいだだけ、子どもの顔になる。


「……今の」


ロウが小さく呟いて、すぐに口を閉じた。


「気のせいだ」


「ただの歌だろ」


レナートがロウを見る。


視線だけで、確かめる。


散歩中の犬が、飼い主を振り返るみたいに。


ロウは何も言わない。


視線を逸らして、腕の包帯をいじった。


指先が、また数を数え始める。


私は、わざと軽く言った。


「寒いんでしょ」


「火に当たりなさい」


ロウがむっとした顔をして、返す。


「……別に」


でも足は、素直に火の方へ動いた。


灰の司祭が、ちらりと私を見る。


目だけで笑う。


言葉はない。


でも言っている。


――線は、国境を越える。


ルーカスが静かに告げた。


「クラリス様」


「次の一手は、王都です」


「神殿の裏口担当を、制度で縛ります」


「そして、王太子が越える線を作る」


私は頷いた。


「作るわ」


「越えた瞬間、紙で落とす」


「涙の燃料ごと」


ロウが火の前で、ぼそっと言った。


「……先生」


「俺、さっきの歌」


「分かんねぇけど」


「嫌じゃなかった」


レナートは、答えない。


ただ、短く言った。


「呼吸しろ」


ロウが鼻で笑う。


「……患者だから?」


「そうだ」


「患者は、勝手に止まるな」


ロウは口の端を上げて、火に手をかざした。


「……へいへい」


机の上の紙束が、冷たく光っている。


生活の歌が、温かく残っている。


その両方が、私たちを次の場所へ押した。


王都へ。


そして、国境の向こうへ。


物語を“完成させる”ために。



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