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第62話 情報の刃と遅れる警報


王都の噂は、もう止まらない。


止めるには、火元を叩くしかない。


火元は“涙”じゃない。


涙は燃料で、火元は“配達”だ。


誰が、どこから、どこへ運んだか。


それを掴めば、燃やした側の手が汚れる。



夕刻。


宿の机に地図が広げられた。


神殿の裏手。


脇道。


荷車の出入り口。


そして市場へ抜ける細い路地。


ルーカスが、淡々と線を引く。


「ここです」


「神殿の裏口は、表の門ほど監視が厳しくない」


「“奉仕”の名目で、荷が出入りする」


「噂の言い出し女が口にした言い回しも、神殿側の文言に近い」


公爵が頷く。


「裏口の記録は?」


ルーカスが小さく息を吐く。


「残っている可能性はあります」


「ただし、神殿の記録は神殿が握っている」


「王宮が動くには王命が必要」


「今はまだ、王命未満です」


私は指先で机を叩いた。


「なら、民の側から取る」


「荷を運ぶ人間がいるなら、必ず“動線”がある」


「動線は、足跡です」


レナートが窓際で静かに言う。


「ロウは連れて行くな」


ロウが即座に返す。


「……俺、歩けるし」


「歩けるのと、一人で動くのは別だ」


「一人で動くつもりじゃねーし」


「お前の“一瞬”が信用できない」


ロウが口を尖らせる。


「それ、悪口?」


「医者だ」


「……は?」


「診断だ」


ロウがむっとした顔をして、目を逸らした。


でも否定しない。


自分でも分かっているからだ。


私は短く言った。


「一緒に行く」


「ただしルールは一つ」


「観察だけ」


ロウが頷く。


「了解」



神殿の裏手は、意外なほど生活臭かった。


表門の荘厳さとは別世界だ。


洗濯物の匂い。


炊き出しの湯気。


荷車の軋む音。


奉仕の名の下に、物が流れる場所。


つまり、噂も流れる。


路地の影に身を寄せ、私たちは様子を見た。


通るのは修道服の少年。


荷を抱えた男。


そして――目につかない服の配達人。


一見、ただの足の速い男。


だが手が違う。


指先に擦れ。


爪の中に縄の繊維。


荷を扱う者の手。


市場の“仕込み女”が言っていた通りの縄だ。


ロウの空気が変わった。


口が閉じる。


目の色が薄くなる。


感情の気配が引く。


――入った。


私は息を呑みそうになり、すぐに飲み込んだ。


(観察だけ)


(観察だけよ、ロウ)


ロウは、こちらを見ない。


見ているのは路地の動線と、人の癖だけ。


歩幅。


荷の持ち替え。


立ち止まる位置。


目線が泳ぐ瞬間。


一つ一つが、糸になっていく。


ルーカスが囁く。


「……すごい」


公爵が小さく言った。


「生活の中の暗号を読む目だな」


私はただ、頷いた。


才能じゃない。


削り落とした形だ。


配達人が、裏口から出てきた。


一度だけ周囲を見回し、路地へ入る。


足は速い。


でも隠し方が雑だ。


慣れているのは運びであって、逃げではない。


つまり“使われている”側。


ロウが小さく息を吐いた。


「……あいつ、次に右を見る」


私は反射的にロウを見る。


ロウは目を動かさないまま言った。


「角、あの石、欠けてるだろ」


「そこに目が行く」


「癖だ」


次の瞬間、配達人は本当に右を見た。


同じ角。


同じ欠けた石。


同じ癖。


ルーカスが眉を上げる。


「……確認できた」


私は小さく頷く。


「追う」


「でも距離は取る」


「ロウは――」


「分かってる」


ロウの返事が乾いている。


感情がない。


情報だけがある。



配達人は市場の裏を抜け、細い通りへ入った。


人混みの端。


視線が届きにくい場所。


伝達に向いた場所。


つまり、噂の中継点だ。


ここで誰かに手渡す。


あるいは、誰かに口頭で“文言”を渡す。


私は、ここで決めた。


“出所”だけでは弱い。


“受け渡し”が必要だ。


紙で刺すなら、手渡しの瞬間が要る。


配達人が立ち止まる。


壁際。


影。


そこに、女が一人いた。


昨日の“仕込み女”ではない。


別の女。


同じ系統の身なり。


同じ綺麗な指。


そして、同じ匂い。


神殿の香。


甘いのに冷たい匂い。


配達人は、女に何かを囁いた。


女は頷き、布袋を受け取る。


布袋の中は紙束だ。


薄い。


軽い。


噂の台本。


言い回しの一覧。


――火種の束。


ルーカスが低く言った。


「決定的です」


私は頷いた。


「記録する」


その瞬間。


ロウが一歩、前へ出た。


私は背筋が冷たくなる。


(だめ)


(観察だけ)


(ここで動いたら――)


ロウは目が死んでいた。


感情が薄い。


情報しか見えていない顔。


今なら取れる。


今なら止められる。


その判断だけで前に出てしまう顔。


レナートが、低く言った。


「ロウ」


ロウは止まらない。


止まらないまま、もう一歩。


次の瞬間だった。


配達人が、ふっと不自然に体を捻った。


手が腰へ行く。


短い刃。


路地の暗がりに慣れた動き。


――最初から護衛がいた。


受け渡しを見られるのを想定していた。


ロウの危険検知が、一拍遅れる。


情報に集中していたせいだ。


避ける反射が遅い。


刃が走った。


ロウの腕の外側を、浅く切った。


袖が裂け、赤が滲む。


「……っ」


声は出ない。


出ないまま、ロウの顔が微かに揺れる。


ここでようやく身体が叫ぶ。


遅れて、痛みが来る。


レナートが一歩で間合いを詰めた。


速い。


情報じゃない。


反射の速さ。


医師の反射じゃない。


貴族の体術でもない。


ただの、守る動き。


レナートの手が、配達人の手首を掴む。


捻る。


刃が落ちる。


音が乾く。


配達人が呻いた。


「誰だ――」


レナートは答えない。


答えずに、もう一度捻る。


骨が鳴りそうな角度。


でも折らない。


折れば事件になる。


折らない。


ギリギリの理性。


それが一番怖い。


女が青ざめて後退する。


布袋を抱えたまま。


逃げようとする。


逃がせば台本が消える。


私は即座に言った。


「ルーカス!」


ルーカスが布袋へ視線を走らせる。


「……印があります」


「神殿の封」


「これで繋がる」


公爵が低く命じる。


「女を押さえろ」


護衛が動く。


王宮の者ではない。


公爵家の者だ。


この場は、王宮の“保護”の外。


だからこちらの手が届く。


女は叫びかけた。


「聖女様のため――!」


私は冷たく言う。


「“聖女のため”は免罪符じゃない」



路地の奥。


息が落ち着いた後で、ロウがようやく口を開いた。


「……俺、取れた」


取れた。


情報が。


台本が。


繋がりが。


その言い方が、怖いほど冷たい。


自分の血より、情報。


自分の痛みより、成果。


レナートの目が、細くなる。


怒りが、底に沈む。


怒鳴らない。


叫ばない。


ただ、低い声だけが落ちる。


「だから患者だ」


ロウが反射的に言い返す。


「……だって今――」


「今じゃない」


レナートは言った。


「今の判断は、お前の命を使って取った判断だ」


ロウが唇を噛む。


感情が戻り始める。


遅れて戻る。


その遅れが、彼の癖だ。


「……止められた」


ロウがぽつりと言う。


「止められたのに」


レナートは、ロウの腕の傷を布で押さえながら言った。


「止めるのは、俺たちの仕事だ」


「お前の仕事は、見て、言え」


「動くな」


ロウが目を逸らす。


悔しさと、怖さと、申し訳なさが混ざっている顔。


でもそれを言葉にしない。


言葉にしたら、崩れると思っている。


私は一歩近づき、低く言った。


「ロウ」


ロウが顔を上げる。


私は彼の目を見て言う。


「あなたが取ったのは、台本だけじゃない」


「“線”よ」


「線が見えたら、あとは私が紙で切る」


ルーカスが布袋の中の紙束を取り出した。


同じ言い回し。


同じ順番。


同じ“正義”の作り方。


証拠として、あまりにも素直だ。


作った側が、自分の賢さを信じすぎている。


公爵が言う。


「これで王の机に落とせる」


私は頷いた。


「落とす」


「そして、王太子が越える線を作る」


ロウは腕の傷を押さえられたまま、ぼそっと言った。


「……先生」


「俺、今」


「何も考えてなかった」


レナートが短く言う。


「それが一番危ない」


ロウが小さく笑った。


乾いた笑い。


「……だよな」


その笑いが、胸に刺さった。


これがローだ。


情報の刃。


そして遅れる警報。


私は黒い封筒を取り出し、紙束を入れた。


双頭の鷲の封蝋を押す。


封を閉じる音が、やけに重かった。


次は、王都の上だ。


神殿と王太子の手元に、噂の台本がある。


台本があるなら、作者がいる。


作者の名前を――机の上で出す。


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