第62話 情報の刃と遅れる警報
王都の噂は、もう止まらない。
止めるには、火元を叩くしかない。
火元は“涙”じゃない。
涙は燃料で、火元は“配達”だ。
誰が、どこから、どこへ運んだか。
それを掴めば、燃やした側の手が汚れる。
◇
夕刻。
宿の机に地図が広げられた。
神殿の裏手。
脇道。
荷車の出入り口。
そして市場へ抜ける細い路地。
ルーカスが、淡々と線を引く。
「ここです」
「神殿の裏口は、表の門ほど監視が厳しくない」
「“奉仕”の名目で、荷が出入りする」
「噂の言い出し女が口にした言い回しも、神殿側の文言に近い」
公爵が頷く。
「裏口の記録は?」
ルーカスが小さく息を吐く。
「残っている可能性はあります」
「ただし、神殿の記録は神殿が握っている」
「王宮が動くには王命が必要」
「今はまだ、王命未満です」
私は指先で机を叩いた。
「なら、民の側から取る」
「荷を運ぶ人間がいるなら、必ず“動線”がある」
「動線は、足跡です」
レナートが窓際で静かに言う。
「ロウは連れて行くな」
ロウが即座に返す。
「……俺、歩けるし」
「歩けるのと、一人で動くのは別だ」
「一人で動くつもりじゃねーし」
「お前の“一瞬”が信用できない」
ロウが口を尖らせる。
「それ、悪口?」
「医者だ」
「……は?」
「診断だ」
ロウがむっとした顔をして、目を逸らした。
でも否定しない。
自分でも分かっているからだ。
私は短く言った。
「一緒に行く」
「ただしルールは一つ」
「観察だけ」
ロウが頷く。
「了解」
◇
神殿の裏手は、意外なほど生活臭かった。
表門の荘厳さとは別世界だ。
洗濯物の匂い。
炊き出しの湯気。
荷車の軋む音。
奉仕の名の下に、物が流れる場所。
つまり、噂も流れる。
路地の影に身を寄せ、私たちは様子を見た。
通るのは修道服の少年。
荷を抱えた男。
そして――目につかない服の配達人。
一見、ただの足の速い男。
だが手が違う。
指先に擦れ。
爪の中に縄の繊維。
荷を扱う者の手。
市場の“仕込み女”が言っていた通りの縄だ。
ロウの空気が変わった。
口が閉じる。
目の色が薄くなる。
感情の気配が引く。
――入った。
私は息を呑みそうになり、すぐに飲み込んだ。
(観察だけ)
(観察だけよ、ロウ)
ロウは、こちらを見ない。
見ているのは路地の動線と、人の癖だけ。
歩幅。
荷の持ち替え。
立ち止まる位置。
目線が泳ぐ瞬間。
一つ一つが、糸になっていく。
ルーカスが囁く。
「……すごい」
公爵が小さく言った。
「生活の中の暗号を読む目だな」
私はただ、頷いた。
才能じゃない。
削り落とした形だ。
配達人が、裏口から出てきた。
一度だけ周囲を見回し、路地へ入る。
足は速い。
でも隠し方が雑だ。
慣れているのは運びであって、逃げではない。
つまり“使われている”側。
ロウが小さく息を吐いた。
「……あいつ、次に右を見る」
私は反射的にロウを見る。
ロウは目を動かさないまま言った。
「角、あの石、欠けてるだろ」
「そこに目が行く」
「癖だ」
次の瞬間、配達人は本当に右を見た。
同じ角。
同じ欠けた石。
同じ癖。
ルーカスが眉を上げる。
「……確認できた」
私は小さく頷く。
「追う」
「でも距離は取る」
「ロウは――」
「分かってる」
ロウの返事が乾いている。
感情がない。
情報だけがある。
◇
配達人は市場の裏を抜け、細い通りへ入った。
人混みの端。
視線が届きにくい場所。
伝達に向いた場所。
つまり、噂の中継点だ。
ここで誰かに手渡す。
あるいは、誰かに口頭で“文言”を渡す。
私は、ここで決めた。
“出所”だけでは弱い。
“受け渡し”が必要だ。
紙で刺すなら、手渡しの瞬間が要る。
配達人が立ち止まる。
壁際。
影。
そこに、女が一人いた。
昨日の“仕込み女”ではない。
別の女。
同じ系統の身なり。
同じ綺麗な指。
そして、同じ匂い。
神殿の香。
甘いのに冷たい匂い。
配達人は、女に何かを囁いた。
女は頷き、布袋を受け取る。
布袋の中は紙束だ。
薄い。
軽い。
噂の台本。
言い回しの一覧。
――火種の束。
ルーカスが低く言った。
「決定的です」
私は頷いた。
「記録する」
その瞬間。
ロウが一歩、前へ出た。
私は背筋が冷たくなる。
(だめ)
(観察だけ)
(ここで動いたら――)
ロウは目が死んでいた。
感情が薄い。
情報しか見えていない顔。
今なら取れる。
今なら止められる。
その判断だけで前に出てしまう顔。
レナートが、低く言った。
「ロウ」
ロウは止まらない。
止まらないまま、もう一歩。
次の瞬間だった。
配達人が、ふっと不自然に体を捻った。
手が腰へ行く。
短い刃。
路地の暗がりに慣れた動き。
――最初から護衛がいた。
受け渡しを見られるのを想定していた。
ロウの危険検知が、一拍遅れる。
情報に集中していたせいだ。
避ける反射が遅い。
刃が走った。
ロウの腕の外側を、浅く切った。
袖が裂け、赤が滲む。
「……っ」
声は出ない。
出ないまま、ロウの顔が微かに揺れる。
ここでようやく身体が叫ぶ。
遅れて、痛みが来る。
レナートが一歩で間合いを詰めた。
速い。
情報じゃない。
反射の速さ。
医師の反射じゃない。
貴族の体術でもない。
ただの、守る動き。
レナートの手が、配達人の手首を掴む。
捻る。
刃が落ちる。
音が乾く。
配達人が呻いた。
「誰だ――」
レナートは答えない。
答えずに、もう一度捻る。
骨が鳴りそうな角度。
でも折らない。
折れば事件になる。
折らない。
ギリギリの理性。
それが一番怖い。
女が青ざめて後退する。
布袋を抱えたまま。
逃げようとする。
逃がせば台本が消える。
私は即座に言った。
「ルーカス!」
ルーカスが布袋へ視線を走らせる。
「……印があります」
「神殿の封」
「これで繋がる」
公爵が低く命じる。
「女を押さえろ」
護衛が動く。
王宮の者ではない。
公爵家の者だ。
この場は、王宮の“保護”の外。
だからこちらの手が届く。
女は叫びかけた。
「聖女様のため――!」
私は冷たく言う。
「“聖女のため”は免罪符じゃない」
◇
路地の奥。
息が落ち着いた後で、ロウがようやく口を開いた。
「……俺、取れた」
取れた。
情報が。
台本が。
繋がりが。
その言い方が、怖いほど冷たい。
自分の血より、情報。
自分の痛みより、成果。
レナートの目が、細くなる。
怒りが、底に沈む。
怒鳴らない。
叫ばない。
ただ、低い声だけが落ちる。
「だから患者だ」
ロウが反射的に言い返す。
「……だって今――」
「今じゃない」
レナートは言った。
「今の判断は、お前の命を使って取った判断だ」
ロウが唇を噛む。
感情が戻り始める。
遅れて戻る。
その遅れが、彼の癖だ。
「……止められた」
ロウがぽつりと言う。
「止められたのに」
レナートは、ロウの腕の傷を布で押さえながら言った。
「止めるのは、俺たちの仕事だ」
「お前の仕事は、見て、言え」
「動くな」
ロウが目を逸らす。
悔しさと、怖さと、申し訳なさが混ざっている顔。
でもそれを言葉にしない。
言葉にしたら、崩れると思っている。
私は一歩近づき、低く言った。
「ロウ」
ロウが顔を上げる。
私は彼の目を見て言う。
「あなたが取ったのは、台本だけじゃない」
「“線”よ」
「線が見えたら、あとは私が紙で切る」
ルーカスが布袋の中の紙束を取り出した。
同じ言い回し。
同じ順番。
同じ“正義”の作り方。
証拠として、あまりにも素直だ。
作った側が、自分の賢さを信じすぎている。
公爵が言う。
「これで王の机に落とせる」
私は頷いた。
「落とす」
「そして、王太子が越える線を作る」
ロウは腕の傷を押さえられたまま、ぼそっと言った。
「……先生」
「俺、今」
「何も考えてなかった」
レナートが短く言う。
「それが一番危ない」
ロウが小さく笑った。
乾いた笑い。
「……だよな」
その笑いが、胸に刺さった。
これがローだ。
情報の刃。
そして遅れる警報。
私は黒い封筒を取り出し、紙束を入れた。
双頭の鷲の封蝋を押す。
封を閉じる音が、やけに重かった。
次は、王都の上だ。
神殿と王太子の手元に、噂の台本がある。
台本があるなら、作者がいる。
作者の名前を――机の上で出す。




