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第61話 涙が撒かれる


噂は、雨と同じだ。


降り始めは誰も気にしない。


けれど、一度地面が湿れば、靴底に絡みついて離れなくなる。


王都の雨は、とくに質が悪い。


匂いが残る。


そしてその匂いを“正義”と呼ぶ者がいる。



「……動きました」


昼前、ルーカスが戻ってきた。


手には薄い紙束。


王都の噂の“形”だ。


「貴族夫人たちの茶会で広がっています」


「『聖女が魔女に怯えている』」


「『公爵令嬢が聖女を泣かせた』」


「『黒い医師が聖女を冷たく退けた』」


私は息を吐く。


順番まで完璧だ。


悲劇の聖女。


加害者の魔女。


それを庇う黒い男。


――この三つが揃うと、物語が燃える。


「しかも、面倒な付け足しがあります」


ルーカスが紙を指で叩く。


「『公爵令嬢は“患者”という名目で少年を囲っている』」


「『白尺伯爵家の医師が、裏でよからぬ――』」


言葉の途中で、ルーカスが口を閉じた。


「下品だね」


私が言うと、ルーカスが頷く。


「はい」


「“罪”を作り始めています」


作ったのは誰か。


分かりきっている。


泣き落としは燃料。


政治は火。


火を大きくするには、匂いが必要だ。


下品な匂いほど、広がる。


私は机の端を指で軽く叩いた。


「出所は?」


ルーカスは迷わず答える。


「市場です」


「……市場?」


「はい」


ルーカスは淡々と続ける。


「茶会は発火点です」


「燃え広がる前に、必ず“街”に落ちます」


「街に落とすには、伝達役が必要です」


「王都で最も速いのは、噂好きの貴族ではない」


「生活の人間です」


私は微かに笑った。


灰の司祭が言っていた通りだ。


神殿前は感情の舞台。


市場は生活の舞台。


生活は、噂を運ぶ。


「じゃあ、行こう」


私が立ち上がると、公爵が頷いた。


「市場は我々の舞台だ」


「金も、物も、言葉も、そこを通る」


レナートは無言で立ち、黒い外套を羽織った。


ロウが、当然のように後ろへつく。


歩ける。


まだ痛みはあるはずなのに、顔に出さない。


そういう子だ。


そういう子だから、狙われる。


レナートが低く言う。


「ロウ、患者だ」


ロウが渋い顔をする。


「……はいはい」


「患者は勝手に動くな」


「俺が勝手に動いたら、先生が勝手に怒るだろ」


「そうだ」


「じゃあ、勝手に怒れ」


口は悪い。


でも視線は、真面目だ。


仕事のスイッチが入りかけている。


私はロウの様子を見て、短く言った。


「今日は“観察”だけよ」


「抜くのは情報だけ」


ロウが顎を引いた。


「了解」


その一言が、妙に大人びていた。



市場は、いつも通りだった。


野菜の匂い。


焼き菓子の甘い匂い。


魚の生臭さ。


笑い声。


値切り声。


それらが混ざって、王都の“生活”になる。


そして生活の隙間に、噂が滑り込む。


「聞いた?」


「聖女様、また泣かされたんですって」


「公爵令嬢が――」


「いや、黒い医者が冷たくてね」


私は、足を止めずに耳だけで拾う。


噂は、流れる水。


止まって聞けば、こちらが濡れる。


歩きながら拾えば、出所が見える。


ルーカスが小声で言った。


「“最初の言い出し”は、同じ女です」


「三件、同じ言い回し」


「“患者”という言葉の使い方が、妙に正確」


私も気づいていた。


噂の語り手は、言葉を知らない。


知っているのは、教えられた者だ。


“患者”なんて言葉を、庶民の噂がこんなに都合よく使うわけがない。


ロウが、ふっと視線を横に流した。


視線だけで、何かを掴む。


それがこの子のスイッチだ。


私は横目で見て、首を振る。


観察だけ。


ロウは、分かっている顔で頷いた。


やがて、狙いの女が見えた。


年齢は三十前後。


身なりはいい。


市場の者にしては指が綺麗だ。


それに、歩き方が“慣れている”。


市場にいるのに、市場の歩き方ではない。


女は露店で立ち止まり、囁く。


「怖いわよねぇ」


「聖女様が泣くなんて」


「公爵令嬢は魔女の加護を――」


言葉が綺麗すぎる。


生活の匂いがしない。


私は、露店の店主に何気なく声をかけた。


「この布、いい色ですね」


店主が嬉しそうに笑う。


「でしょ、奥様」


「その人、よく来るんですか?」


「ああ、来る来る」


店主は顎で女を指した。


「最近、急にね」


「話も上手でさ、みんな聞いちまう」


“最近、急に”。


それだけで十分だった。


仕込みだ。


私は布を一つ買い、ついでに言った。


「領収、もらえます?」


店主が目を丸くする。


「領収?」


「ええ。公爵家の会計に出すので」


公爵が後ろで、わざとらしく咳払いをした。


店主の顔色が変わる。


……市場の人間は、公爵家の名に弱い。


弱いからこそ、正直になる。


「は、はいっ!」


店主は慌てて紙を探し、書記具を握る。


私は、女の方を見ないまま言った。


「ところで、さっきの方」


「どこのご紹介で来るようになったんですか?」


店主は、口を開きかけて止まる。


目が泳ぐ。


言っていいのか迷う。


その迷いこそ、答えだ。


ルーカスが、いつもの柔らかい声で助け舟を出す。


「大丈夫ですよ」


「悪いようにはしません」


「ただ、記録が必要なんです」


店主は、観念したように小さく言った。


「……神殿の裏の、配達の人が」


「“話してくれ”って」


「聖女様のためだって」


神殿。


やっぱり。


私は領収を受け取り、紙の端を指で押さえた。


紙は軽い。


でも、この軽さが王都では重い。


(出所は神殿)


(市場に落として、街を燃やす)


(そして燃えたところを、王太子が政治で殴る)


私は、息を吐いた。


勝ち筋が、また一段はっきりした。


噂の燃料は、涙だけじゃない。


“配達”がある。


配達があるなら、記録が残る。


ロウが小さく言った。


「……あいつ、右手の指に傷」


「配達の縄で擦れたやつだな」


私はロウを見た。


観察だけ。


でもその観察が、鋭すぎる。


レナートが低い声で言う。


「ロウ」


ロウが口を尖らせる。


「わーってる」


「患者は勝手に動かねーんだろ」


「そうだ」


「……でもさ」


ロウは一瞬だけ真面目な顔になる。


「今、動けば止められるって思ったら」


「俺、たぶん動く」


その危うさが、怖い。


でも、それが彼の強さでもある。


そして、狙われる理由でもある。


私は、ロウの視線を受け止めて言った。


「動かなくていい」


「あなたの観察で十分」


「――こっちは“紙”で刺す」


ルーカスが頷く。


「配達の線は追えます」


「神殿の裏口の出入り」


「誰が指示して、誰が運んだか」


「市場の領収と証言で、入口はできました」


公爵が短く言った。


「なら、次は出口だ」


「王の机に落とす形にする」


私は手元の紙を折り、黒い封筒に入れた。


双頭の鷲の封蝋が、静かに光る。


舞台で燃やしたいなら燃やせばいい。


燃えたところを、机で消す。


そして――


燃やした側の手元に、燃料が残るように仕向ける。


王都の雨はしつこい。


でも雨には、必ず雲がある。


雲の形を掴めば、降らせた者の顔が見える。


私は市場の喧騒を背に、静かに笑った。


次は、雲の上だ。



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