第61話 涙が撒かれる
噂は、雨と同じだ。
降り始めは誰も気にしない。
けれど、一度地面が湿れば、靴底に絡みついて離れなくなる。
王都の雨は、とくに質が悪い。
匂いが残る。
そしてその匂いを“正義”と呼ぶ者がいる。
◇
「……動きました」
昼前、ルーカスが戻ってきた。
手には薄い紙束。
王都の噂の“形”だ。
「貴族夫人たちの茶会で広がっています」
「『聖女が魔女に怯えている』」
「『公爵令嬢が聖女を泣かせた』」
「『黒い医師が聖女を冷たく退けた』」
私は息を吐く。
順番まで完璧だ。
悲劇の聖女。
加害者の魔女。
それを庇う黒い男。
――この三つが揃うと、物語が燃える。
「しかも、面倒な付け足しがあります」
ルーカスが紙を指で叩く。
「『公爵令嬢は“患者”という名目で少年を囲っている』」
「『白尺伯爵家の医師が、裏でよからぬ――』」
言葉の途中で、ルーカスが口を閉じた。
「下品だね」
私が言うと、ルーカスが頷く。
「はい」
「“罪”を作り始めています」
作ったのは誰か。
分かりきっている。
泣き落としは燃料。
政治は火。
火を大きくするには、匂いが必要だ。
下品な匂いほど、広がる。
私は机の端を指で軽く叩いた。
「出所は?」
ルーカスは迷わず答える。
「市場です」
「……市場?」
「はい」
ルーカスは淡々と続ける。
「茶会は発火点です」
「燃え広がる前に、必ず“街”に落ちます」
「街に落とすには、伝達役が必要です」
「王都で最も速いのは、噂好きの貴族ではない」
「生活の人間です」
私は微かに笑った。
灰の司祭が言っていた通りだ。
神殿前は感情の舞台。
市場は生活の舞台。
生活は、噂を運ぶ。
「じゃあ、行こう」
私が立ち上がると、公爵が頷いた。
「市場は我々の舞台だ」
「金も、物も、言葉も、そこを通る」
レナートは無言で立ち、黒い外套を羽織った。
ロウが、当然のように後ろへつく。
歩ける。
まだ痛みはあるはずなのに、顔に出さない。
そういう子だ。
そういう子だから、狙われる。
レナートが低く言う。
「ロウ、患者だ」
ロウが渋い顔をする。
「……はいはい」
「患者は勝手に動くな」
「俺が勝手に動いたら、先生が勝手に怒るだろ」
「そうだ」
「じゃあ、勝手に怒れ」
口は悪い。
でも視線は、真面目だ。
仕事のスイッチが入りかけている。
私はロウの様子を見て、短く言った。
「今日は“観察”だけよ」
「抜くのは情報だけ」
ロウが顎を引いた。
「了解」
その一言が、妙に大人びていた。
◇
市場は、いつも通りだった。
野菜の匂い。
焼き菓子の甘い匂い。
魚の生臭さ。
笑い声。
値切り声。
それらが混ざって、王都の“生活”になる。
そして生活の隙間に、噂が滑り込む。
「聞いた?」
「聖女様、また泣かされたんですって」
「公爵令嬢が――」
「いや、黒い医者が冷たくてね」
私は、足を止めずに耳だけで拾う。
噂は、流れる水。
止まって聞けば、こちらが濡れる。
歩きながら拾えば、出所が見える。
ルーカスが小声で言った。
「“最初の言い出し”は、同じ女です」
「三件、同じ言い回し」
「“患者”という言葉の使い方が、妙に正確」
私も気づいていた。
噂の語り手は、言葉を知らない。
知っているのは、教えられた者だ。
“患者”なんて言葉を、庶民の噂がこんなに都合よく使うわけがない。
ロウが、ふっと視線を横に流した。
視線だけで、何かを掴む。
それがこの子のスイッチだ。
私は横目で見て、首を振る。
観察だけ。
ロウは、分かっている顔で頷いた。
やがて、狙いの女が見えた。
年齢は三十前後。
身なりはいい。
市場の者にしては指が綺麗だ。
それに、歩き方が“慣れている”。
市場にいるのに、市場の歩き方ではない。
女は露店で立ち止まり、囁く。
「怖いわよねぇ」
「聖女様が泣くなんて」
「公爵令嬢は魔女の加護を――」
言葉が綺麗すぎる。
生活の匂いがしない。
私は、露店の店主に何気なく声をかけた。
「この布、いい色ですね」
店主が嬉しそうに笑う。
「でしょ、奥様」
「その人、よく来るんですか?」
「ああ、来る来る」
店主は顎で女を指した。
「最近、急にね」
「話も上手でさ、みんな聞いちまう」
“最近、急に”。
それだけで十分だった。
仕込みだ。
私は布を一つ買い、ついでに言った。
「領収、もらえます?」
店主が目を丸くする。
「領収?」
「ええ。公爵家の会計に出すので」
公爵が後ろで、わざとらしく咳払いをした。
店主の顔色が変わる。
……市場の人間は、公爵家の名に弱い。
弱いからこそ、正直になる。
「は、はいっ!」
店主は慌てて紙を探し、書記具を握る。
私は、女の方を見ないまま言った。
「ところで、さっきの方」
「どこのご紹介で来るようになったんですか?」
店主は、口を開きかけて止まる。
目が泳ぐ。
言っていいのか迷う。
その迷いこそ、答えだ。
ルーカスが、いつもの柔らかい声で助け舟を出す。
「大丈夫ですよ」
「悪いようにはしません」
「ただ、記録が必要なんです」
店主は、観念したように小さく言った。
「……神殿の裏の、配達の人が」
「“話してくれ”って」
「聖女様のためだって」
神殿。
やっぱり。
私は領収を受け取り、紙の端を指で押さえた。
紙は軽い。
でも、この軽さが王都では重い。
(出所は神殿)
(市場に落として、街を燃やす)
(そして燃えたところを、王太子が政治で殴る)
私は、息を吐いた。
勝ち筋が、また一段はっきりした。
噂の燃料は、涙だけじゃない。
“配達”がある。
配達があるなら、記録が残る。
ロウが小さく言った。
「……あいつ、右手の指に傷」
「配達の縄で擦れたやつだな」
私はロウを見た。
観察だけ。
でもその観察が、鋭すぎる。
レナートが低い声で言う。
「ロウ」
ロウが口を尖らせる。
「わーってる」
「患者は勝手に動かねーんだろ」
「そうだ」
「……でもさ」
ロウは一瞬だけ真面目な顔になる。
「今、動けば止められるって思ったら」
「俺、たぶん動く」
その危うさが、怖い。
でも、それが彼の強さでもある。
そして、狙われる理由でもある。
私は、ロウの視線を受け止めて言った。
「動かなくていい」
「あなたの観察で十分」
「――こっちは“紙”で刺す」
ルーカスが頷く。
「配達の線は追えます」
「神殿の裏口の出入り」
「誰が指示して、誰が運んだか」
「市場の領収と証言で、入口はできました」
公爵が短く言った。
「なら、次は出口だ」
「王の机に落とす形にする」
私は手元の紙を折り、黒い封筒に入れた。
双頭の鷲の封蝋が、静かに光る。
舞台で燃やしたいなら燃やせばいい。
燃えたところを、机で消す。
そして――
燃やした側の手元に、燃料が残るように仕向ける。
王都の雨はしつこい。
でも雨には、必ず雲がある。
雲の形を掴めば、降らせた者の顔が見える。
私は市場の喧騒を背に、静かに笑った。
次は、雲の上だ。




