第59話 医者のままでは守れない
翌朝、王都は静かだった。
舞踏会の余韻は甘く、噂は軽く、笑い声は柔らかい。
――だからこそ、紙の音がよく響く。
権力はいつも、夜ではなく朝に動く。
◇
宿の一室。
机の上に置かれた封筒は、王宮の封緘だった。
白い蝋。
王家の紋。
触れなくても分かる。
これは“お願い”ではない。
“通達”だ。
ルーカスが先に開け、淡々と読み上げる。
「王宮医務局より通達」
「白尺伯爵家に属する医師の市井診療について――衛生監督の臨時調査を行う」
「併せて、当該医師が公爵家随行に加わる正当性を再確認する」
「調査日程は本日中に通知」
“民のため”という名目。
“再確認”という言葉。
要するに――首を絞めに来た。
公爵が、指を鳴らす。
「早いな」
「舞踏会の翌朝に、医務局が動く」
「王太子の指が入っている」
公爵の声は冷たい。
だが、驚きはない。
最初から織り込み済みの顔だった。
私は紙を受け取り、文面を目で追う。
行間に、はっきりと書いてある。
――お前を机の上で切り刻む。
「“随行の正当性”を潰しに来ましたね」
私が言うと、ルーカスが頷く。
「医師としての随行が崩れれば、同行が“私的”になります」
「私的になれば、次は“不適切な関係”です」
「噂を燃料に、罪へ変える」
「王都はそれが得意です」
私は息を吐いた。
泣き落としの燃料は、もう充分にある。
あとは“罪の形”に固めるだけ。
彼らはそれを、紙でやる。
「こちらも紙で返す」
私は言った。
「机で戦う」
◇
扉が叩かれた。
控えめではない。
“ここは王都だ”という叩き方。
入ってきたのは、王宮の監督官だった。
連れているのは衛生官と、書記。
そして、見慣れた白。
セレスティナが“偶然”を装って、すぐ後ろに立っている。
涙の準備をした目で。
監督官が頭を下げた。
「公爵閣下、公爵令嬢クラリス様」
「王宮医務局より、皆様の安全のために――」
“安全”。
“配慮”。
王都の首絞めの言葉だ。
公爵は椅子に深く座ったまま言う。
「用件は書面で受け取っている」
「改めて口で言う必要はない」
監督官は引き下がらない。
「形式です」
「本件、王都の規定に照らし――」
ルーカスが、静かに前へ出た。
「規定の話なら、こちらも規定で返しましょう」
「まず、調査官の権限範囲を提示してください」
「臨時調査の根拠条文」
「調査対象の定義」
「そして、“誰の指揮で”動いているのか」
監督官の目が僅かに揺れる。
私はそれを見て、心の中で数える。
一。
二。
三。
――来る。
案の定、白が動いた。
セレスティナが一歩前へ出て、胸元に手を当てた。
「……怖いのです」
震える声。
「昨夜から、胸が苦しくて」
「魔女が……また、わたしを――」
周囲の空気が、すぐに熱を帯びる。
この場にいる衛生官の顔が変わる。
書記の手が止まる。
“聖女の不調”は、即ち“正義”だ。
私は、内心で笑いそうになった。
(来た来た)
(いつもの燃料)
だが。
次に響いたのは、泣き声ではなかった。
◇
低い声。
怒りを抑えた、冷えた声。
「……その話は後にしろ」
全員が一斉に振り向いた。
レナートが、扉の陰に立っていた。
黒を纏ったまま。
舞踏会の夜の黒ではない。
今日の黒は、もっと実務の黒。
余計な飾りのない黒。
目の下にわずかな影があり、眠れていないのが分かる。
監督官が咳払いをする。
「ベルデンベルク卿、本件は王宮医務局の――」
レナートは、一歩だけ進んだ。
「俺は医師だ」
「だから、“不調”が本当なら診る」
「本当じゃないなら、場を汚すな」
セレスティナの目が細くなる。
泣き落としが、すぐに切られた。
しかも、“治療”の言葉で切られた。
ここで泣けば、診察を要求される。
診察を拒めば、嘘になる。
セレスティナは、笑みを作った。
涙のまま、作った。
「……わたしは、怖いだけです」
レナートは淡々と言う。
「怖さは医務局の管轄じゃない」
「症状があるなら、診る」
「ないなら、帰れ」
場が凍った。
監督官の顔が赤くなる。
王宮の使いが、医師に“退け”と言われた。
しかも丁寧にではなく、事務的に。
それが一番、屈辱だ。
監督官は声を上げた。
「卿! 言葉を選べ!」
「貴殿の市井診療は臨時調査の対象だ!」
「随行の正当性も――」
レナートのまぶたが、ゆっくりと下がる。
眠たげな倦怠が、消える。
代わりに出るのは――切り替わった目。
「随行の正当性?」
レナートが静かに言った。
「なら、手順で示せ」
「俺を外したいなら、俺の代わりを持ってこい」
監督官が言い返す。
「代わりなど――」
「いるだろ」
レナートは遮った。
「王宮医務局には医師がいる」
「神殿にも癒し手がいる」
「俺を外すなら、同等の医療体制を準備しろ」
「それが“民のため”だ」
言い返せない。
言い返せば、“民のため”が崩れる。
崩れた瞬間、これはただの政治になる。
ルーカスが静かに追撃する。
「調査で医師の手を止めるなら、代替計画が必要です」
「計画の提出をお願いします」
「書面で」
監督官の唇が歪む。
公爵が、初めて口を開いた。
「王都は便利だな」
「“配慮”で拘束し、“正義”で黙らせる」
「だが、うちの娘は泣かない」
「泣かないから、燃えない」
私は机の上に、もう一通の封筒を置いた。
黒い封蝋。
双頭の鷲。
そして、宛名は――王。
「調査は構いません」
私は静かに言った。
「ただし条件があります」
監督官が眉をひそめる。
「条件?」
「はい」
私は紙を一枚差し出す。
「臨時調査の根拠条文」
「調査対象の定義」
「指揮系統」
「代替計画」
「そして、聖女殿の“症状”の記録」
「すべて、記録として残します」
監督官は言う。
「……貴殿らは、王都を信用していないのか」
私は微笑まない。
「信用ではなく、形式です」
「王都は形式を愛するでしょう?」
◇
監督官たちが退いた後。
室内の空気は、まだ冷たいままだった。
レナートは窓際に立ち、息を吐いた。
「……ここから先は」
誰に言うでもなく、言葉が落ちる。
「医者じゃいられないな」
私は、横目で彼を見た。
「気づくのが遅い?」
レナートは短く笑った。
笑いというより、疲れだ。
「遅い」
「でも、今なら分かる」
「俺の手を止めれば、誰が困るか」
「ロウだ」
言い切った瞬間、声の底に怒りが沈む。
「俺が診るべき患者を、政治が奪う」
「……許せない」
医師の怒り。
それは、暴力の怒りではない。
順序の怒りだ。
命を守る順序を、権力が壊すことへの怒り。
私は、机の黒い封筒を指で叩いた。
「王は見ている」
「越えた線だけを切る人だ」
「だから、越えさせればいい」
レナートの視線が、鋭くなる。
「越えさせる?」
「ええ」
私は言った。
「泣き落としは燃料」
「政治は火」
「燃えたところを、条文で消す」
「――あなたが揺れない限り、こちらは勝てます」
レナートは一拍置いて言った。
「揺れない」
そして小さく付け足す。
「……医療に関係ないからな」
私は、そこで初めて少しだけ笑った。
舞台の火は強くなる。
でも机の上には、冷たい紙が積み上がっていく。
次は、王太子がもっと露骨に動く。
もっと嫌な手で。
もっと“正義”を装って。
その時、私は躊躇しない。
躊躇すれば、ロウが折れる。
躊躇しなければ――
王太子の線が、越える。
そして王が、切る。
机の上で。




