第58話 黒で立つ理由
舞踏会は、嫌いだ。
人はここで、言葉より先に値札を貼る。
家柄。地位。金。血。
そして顔だ。
顔が良ければ、話が歪む。
顔が悪ければ、話も聞かれない。
……医療と同じだと思うことがある。
助けたい者の順番が、病状ではなく“都合”で決まる。
それが、王都だ。
だから本当は来たくなかった。
だが来ないわけにもいかなかった。
来ないという選択は、逃げたという記録になる。
逃げた者は、机の上で弱くなる。
弱いところから切り取られて、正義の燃料にされる。
俺は医師だ。
けれど、俺は伯爵家の嫡男でもある。
この二つは、時に矛盾する。
だが今日だけは矛盾させない。
矛盾させたら、ロウが傷つく。
ロウの足に巻いた包帯を思い出す。
痛みに耐える顔。
「大丈夫だって言ってんだろ」
強がりの声。
あの声が、今日もどこかで折られたら——
そう考えるだけで、胸の奥が冷える。
だから舞踏会に出た。
社交のためじゃない。
踊るためでもない。
俺がここに立つ理由は一つだけだ。
“盤面を確認する”
王太子が、どこまで踏み込む気か。
聖女が、どこまで泣けば勝てると思っているか。
この王都の空気が、まだ燃えるのか。
燃えるのなら、何が燃料になっているのか。
黒を選んだのも同じ理由だ。
白の中に立てば、白の正しさに溶ける。
溶ければ、利用される。
俺は利用される位置には立たない。
立たないと、示す必要があった。
髪は結わない。
整えすぎない。
“社交”に力を入れていないことが伝われば、それでいい。
余裕でも、虚勢でもない。
ただ、俺は今日、ここで誰にも媚びる気がない。
扉が開く。
光が差す。
ざわめきが走る。
視線が集まる。
……案の定だ。
俺が何もしなくても、勝手に空気が動く。
女たちが色めき立ち、囁きが生まれ、比較が始まる。
そして比較の先で、必ず誰かが怒る。
白の中心にいる男——レオンハルトが、こちらを見た。
目が笑っていない。
笑っていないのに、笑って見せる目。
政治の目だ。
(やはり、俺は餌だ)
そう理解した瞬間、吐き気がした。
医師として民の血を洗ってきた手が、
王都では“王権の柱”として扱われる。
聖女が近づいてきた。
白い香。
涙の匂い。
距離を詰めれば効く、と信じている目。
「どうして、あなたはそんなに美しいのですか?」
……くだらない。
いや、くだらないと言ってしまえば、彼女は泣く。
泣けば、周りが燃える。
燃えれば、ロウがまた巻き込まれる。
だから俺は、ただ事実だけを返す。
「わかりません」
「美しさは、医療に関係ありません」
空気が凍った。
彼女の自尊心が、音を立てて割れるのが分かった。
割れたものは、次に刃になる。
割れた女は、泣く。
泣いて、誰かを殺す。
そして遠くで、王太子の嫉妬が強くなる。
あの男はきっと、政治で殴ってくる。
規定の外側から、生活を締めてくる。
その時――俺は気づいた。
ここから先は、医師じゃいられない。
医師は、治療に集中すべきだ。
患者を守り、命を繋ぐべきだ。
だが王都は、患者を“駒”にする。
命を“燃料”にする。
俺は今日、舞踏会に出て確信した。
このままではロウは、もう一度折られる。
――折らせない。
そのために必要なら、俺は医師の顔だけでは立てない。
黒の袖の内で、拳を握る。
血を洗う手で、殴る日が来る。
嫌いだ。
舞踏会は嫌いだ。
だが、逃げない。
逃げたら、次はロウが泣く。
だから俺は、黒で立つ。
(ここから先は)
(俺の仕事じゃない、なんて言えない)
医師としての矜持が、今、別の形に変わっていくのを感じた。
冷たい変化。
けれど確かな覚悟。
舞台の上で、泣き声が燃え始める。
俺はその火を、ただ見ていた。
燃える前に消せる火かどうかを。
消せないなら、灰にする火かどうかを。
そして静かに、息を吐いた。
——ロウは、誰の管轄だ。
あの一言が、俺の中で別の意味を持つ。
管轄とは、責任だ。
責任とは、守るということだ。
俺は、もう戻れないところまで来た。




