第57話 効かない祝福、折れない黒、男の嫉妬
セレスティナは、距離を詰めた。
目と鼻の先。
香も、吐息も、視線も届く距離。
――“祝福が効く距離”。
白いドレスの裾が床を滑り、彼女は完璧な角度で顔を上げた。
「レナート様……」
呼び方も、声の震えも、涙の残り方も、計算通り。
ここで相手の瞳が揺れる。
揺れたら勝ち。
揺れれば、殿下が動く。
殿下が動けば、王都が動く。
セレスティナはその未来を、もう握っているつもりだった。
レナートは視線を向けた。
けれど――その目は冷えていた。
興味がないのではない。
感情を出す必要がない、という目だ。
「聖女殿」
丁寧な呼称。
それだけ。
微笑みもない。
気遣いの言葉もない。
距離を詰めても、まぶたが少しだけ重たいまま。
倦怠が残る仕草すら、崩れない品に変わってしまっている。
――効かない。
セレスティナの中で、細い糸が一本、切れた。
(……おかしい)
(近いのに)
(“届く”はずなのに)
彼女は、笑みを作った。
作らないと、崩れる。
崩れたら、舞台の中心から落ちる。
「……先日のこと、わたし、とても心配しておりましたの」
「お怪我は……」
レナートは一拍置いて答えた。
「ありません」
短い。
その短さが、拒絶に近い。
話を続ける気がない。
けれど、失礼ではない。
失礼ではないから、責めにくい。
セレスティナは、内側で苛立った。
(なによ、それ)
(私は“聖女”なのに)
(私が心配してるのに)
(もっと……もっと、ありがたがるべきでしょう?)
そういう女の苛立ち。
自分の価値が通用しない瞬間に、初めて現れる本性。
セレスティナは、半歩だけ距離を詰めた。
わざと。
ほとんど、袖が触れるほど。
香りが届く距離。
声を落とせば、秘密めいた囁きになる位置。
――ここなら、効く。
彼女はそう確信していた。
「レナート様」
柔らかく、名前を呼ぶ。
「どうして、あなたはそんなに美しいのですか?」
それは質問の形をしているが、実際は違う。
答えは決まっている。
あなたも美しい
いいえ、あなたほどでは
そういう往復が、いつも始まる。
だが。
レナートは、視線を逸らさなかった。
見つめもしない。
持ち上げもしない。
ただ、淡々と――
「わかりません」
一拍。
セレスティナの唇が、わずかに止まる。
「……え?」
レナートは、そこで終わらせなかった。
「美しさは、医療に関係ありません」
声は低く、感情の起伏がない。
切り捨てでも、拒絶でもない。
前提にすら置いていない言い方。
空気が、一段冷える。
(……効かない)
セレスティナは、ようやく理解した。
この男は――
自分を“対象”として見ていない。
可愛いとも、哀れとも、
ましてや“特別”とも。
彼女の胸の奥で、何かが音を立ててひび割れる。
「……レナート様」
「わたしの祝福が、必要なら――」
彼女は言いかけて、言い直す。
「……必要でなくても」
「わたしは、あなたのお力になりたいの」
“あなたのため”を装って、
“私のために落ちなさい”と迫る。
レナートの返事は、淡かった。
「必要な時は、こちらから依頼します」
依頼。
取引。
線引き。
セレスティナの胸が、熱くなる。
怒りだ。
恥だ。
(私を、ただの“機能”扱い……?)
彼女は泣きたくなった。
泣きたいのではない。
泣けば勝てるから泣きたい。
舞台の燃料を、ここで足したい。
でも――この男の前で泣いても、効かない。
直感で分かってしまった。
この男は、涙を見ても動かない。
泣き声で動くのは周囲の空気だけで、本人は動かない。
(……厄介)
私は少し離れた位置から、それを見ていた。
黒を纏った男の無関心が、
白い聖女の“有利”を削っていく。
セレスティナは、笑顔のまま歯噛みした。
(じゃあ――殿下に燃やしてもらう)
彼女は視線を滑らせた。
遠く、白の中心に立つ王太子へ。
合図。
泣き落としの再点火。
◇
レオンハルトは、見ていた。
見たくないのに、見ていた。
聖女が距離を詰める。
聖女が声をかける。
聖女が笑い、揺れる。
――そして。
黒の男が、揺れない。
それが、腹立たしい。
それだけなら、まだ耐えられた。
本当に腹立たしいのは――
周囲の女たちが、揺れない黒へ視線を集めていることだった。
「殿下も美しいけれど……」
「でも、あの方は……別格ね」
「黒が似合う男って、ずるいわ」
囁きが耳に入る。
入ってしまう。
入った瞬間、言葉が刃になる。
(比べるな)
(王太子と、医者ごときを)
レオンハルトは笑みを保った。
保たなければならない。
王太子の白は“正しい”。
正しい顔を崩したら、舞台の中心から落ちる。
なのに。
黒の男は、顔を崩さない。
崩さないどころか、気だるそうにさえ見える。
眠たげで、倦怠が滲んでいるのに――
それが色気になっている。
余裕に見えている。
(……ふざけるな)
レオンハルトの内側が、ぎし、と音を立てる。
嫉妬。
男の嫉妬。
格の違いを盾にしたいのに、盾が役に立たない。
顔で負けている、と分かってしまうからだ。
王太子は、心の中で必死に理屈を並べる。
(俺は王宮に住み、祭りごとを動かし、軍も動かす)
(あいつは小さな石造りの診療所で、平民の血を洗っているだけだ)
比べるほど、惨めになる。
比べるほど、“隠したい感情”が浮き上がる。
セレスティナがこちらを見た。
泣きそうな目。
――合図。
レオンハルトは、優しい顔を作って歩き出した。
聖女の味方。
正しさの中心。
いつもの芝居。
けれど、心の中は別だった。
(落とせ)
(白尺を王家の支柱にする)
(この黒を、王家の足元に置け)
そのために、聖女を使う。
聖女の祝福で縛る。
聖女の“選択”で囲う。
愛じゃない。
ただの手綱。
レオンハルトはセレスティナの横へ立ち、黒の男へ視線を投げた。
「ベルデンベルク卿」
呼称は丁寧。
声は滑らか。
王太子の言葉。
「王都へようこそ」
「君ほどの才が、なぜ市井に――」
探る言い方。
引きずり出す言い方。
レナートは、ゆっくり瞬きをした。
眠たげなまぶたのまま、視線だけは鋭い。
「必要だからです」
それだけ。
王太子の眉が、ほんの僅かに動いた。
必要。
王宮ではなく。
神殿でもなく。
――市井が必要だと言った。
その一言が、王太子の白を汚した気がした。
私は思った。
(これで決まった)
セレスティナの祝福は効かない。
王太子の格式も刺さらない。
だからこそ、次に来るのは――
“規定の外側”の嫌な手だ。
舞台の光が強くなるほど、影は濃くなる。
黒は、白に染まらない。
そして白は、黒を許さない。
その気配が、会場の空気を冷やした。




