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第55話 距離を詰めれば効く、という誤算



王都は、今日も“舞台”だった。


舞台の上では涙が正義になり、正義が命令になる。


だからこそ――机の上の紙が、よく刺さる。



王宮の回廊。


セレスティナは泣き腫れた目を伏せたまま、しかし歩みは乱していなかった。


泣いているのに、崩れない。


崩れないから、見物は「美しい」と誤解する。


(近づけば効く)


(あの医師に、私の祝福は届く)


(……届かないはずがない)


一度、届かなかった。


だから彼女は理由を作った。


“魔女の気配があったから”


“距離があったから”


“偶然だから”


つまり――次は必ず勝てる。


レオンハルトが隣を歩く。


外から見れば、聖女を守る王太子。


けれど二人の距離は、紙一枚より冷たい。


「使者が戻るまで待て」


レオンハルトが言う。


声は優しい。


優しいふり。


「君が動けば、火が増える」


「火が増えれば、こちらが燃える」


セレスティナは小さく頷きながら、内心で別のことを考える。


(殿下が“止めろ”と言う時は)


(私が動けば、殿下が動かざるを得なくなる時)


そういう女だ。


利用されるだけで終わらない。


利用し返す。


「……殿下」


セレスティナは涙を指で拭い、細い声で言った。


「わたし、怖いのです」


「魔女が……また、わたしの祝福を」


レオンハルトは立ち止まり、彼女の頬に触れるふりをした。


周囲に見せるための動作。


「怖がるな」


「君が泣けば、皆が動く」


これも本音ではない。


本音は――


“君が泣けば、皆を動かせる”


その時、側近が急いで来た。


「殿下。現場より報告です」


レオンハルトが紙を受け取る。


目を走らせ――笑う。


笑いは短い。


苛立ちの笑いだ。


「……管轄外だと?」


「伯爵家の医師が、王家使者に?」


側近が言う。


「検疫規定と記録を盾に、押し返されました」


「加えて、侯爵家紋の指示系統への照会文を添えよと」


レオンハルトの指が紙を折った。


強く。


「……あの女」


クラリスのことだ。


“記録”を武器にする女。


泣き落としが効かない女。


そして何より苛立つのは、別の一点。


側近が、言いにくそうに付け足した。


「……殿下」


「現場で、伯爵家嫡男が言ったそうです」


「『ロウは誰の管轄だ』と」


レオンハルトの眉が跳ねた。


その言葉が意味するのは“医者の矜持”ではない。


“権限”だ。


“順序”だ。


(伯爵家を、支柱に収める)


レオンハルトの思考がそこで止まらない。


金の流れは侯爵家。


医療の流れは伯爵家。


神殿の正義は聖女。


その三つを束ねれば、王家は軍より強い。


命と金と正義が、手のひらに落ちる。


だから、伯爵家の医者を“外”に置いてはいけない。


外で民を診る医者は、民の尊敬を集める。


尊敬は、権威になる。


権威は、王権と衝突する。


レオンハルトは、静かに言った。


「……セレスティナ」


「はい」


「近づけ」


セレスティナの胸が勝手に上がる。


(来た)


(やっと、来た)


彼女は“愛”と誤解した。


でもこれは、命令だ。


国策だ。


レオンハルトは続けた。


「伯爵家嫡男に近づけ」


「“聖女”が、彼を選ぶ形を作れ」


「彼が王家に逆らえなくなる“絆”を作れ」


セレスティナは、涙を落としながら微笑みそうになった。


泣いているふりをしながら、勝った気になる。


(効く)


(距離を詰めれば、祝福は届く)


(私が選べば、彼は落ちる)


レオンハルトは、優しい声を作る。


「君ならできる」


そして、心の中で付け足す。


(落とせ)


(落ちれば、白尺は王家の柱だ)


(落ちなければ――白尺ごと潰す)


セレスティナは、笑わなかった。


笑わずに泣いた。


泣きながら、“狩る”女の目をしていた。



同じ頃。


私は王都へ向かう準備を整えていた。


公爵が地図を広げる。


「ここから先は、王都の舞台だ」


ルーカスが言う。


「舞台へ上がるなら、台本を増やしましょう」


私は頷いた。


「増やす」


「でも燃料は要らない」


「水だけでいい」


ルーカスが紙束を差し出す。


新しい書式。


追加の証言。


検疫施療所の規定条文。


そして――


王家使者が“管轄外”を踏もうとした記録。


私はそれを受け取った。


「これで、王が見る」


公爵が静かに言った。


「王は見ている」


「王太子が王として立てるかどうかを」


私は封筒を閉じた。


黒い封蝋。


双頭の鷲。


冷たい印。


泣き落としの舞台に、また涙が落ちる。


でも私は知っている。


涙が燃えるほど、机の上の紙は濡れない。


だから私は、濡れないものだけを持って王都へ行く。


――舞台の上で、証拠を落とすために。


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