第55話 距離を詰めれば効く、という誤算
王都は、今日も“舞台”だった。
舞台の上では涙が正義になり、正義が命令になる。
だからこそ――机の上の紙が、よく刺さる。
◇
王宮の回廊。
セレスティナは泣き腫れた目を伏せたまま、しかし歩みは乱していなかった。
泣いているのに、崩れない。
崩れないから、見物は「美しい」と誤解する。
(近づけば効く)
(あの医師に、私の祝福は届く)
(……届かないはずがない)
一度、届かなかった。
だから彼女は理由を作った。
“魔女の気配があったから”
“距離があったから”
“偶然だから”
つまり――次は必ず勝てる。
レオンハルトが隣を歩く。
外から見れば、聖女を守る王太子。
けれど二人の距離は、紙一枚より冷たい。
「使者が戻るまで待て」
レオンハルトが言う。
声は優しい。
優しいふり。
「君が動けば、火が増える」
「火が増えれば、こちらが燃える」
セレスティナは小さく頷きながら、内心で別のことを考える。
(殿下が“止めろ”と言う時は)
(私が動けば、殿下が動かざるを得なくなる時)
そういう女だ。
利用されるだけで終わらない。
利用し返す。
「……殿下」
セレスティナは涙を指で拭い、細い声で言った。
「わたし、怖いのです」
「魔女が……また、わたしの祝福を」
レオンハルトは立ち止まり、彼女の頬に触れるふりをした。
周囲に見せるための動作。
「怖がるな」
「君が泣けば、皆が動く」
これも本音ではない。
本音は――
“君が泣けば、皆を動かせる”
その時、側近が急いで来た。
「殿下。現場より報告です」
レオンハルトが紙を受け取る。
目を走らせ――笑う。
笑いは短い。
苛立ちの笑いだ。
「……管轄外だと?」
「伯爵家の医師が、王家使者に?」
側近が言う。
「検疫規定と記録を盾に、押し返されました」
「加えて、侯爵家紋の指示系統への照会文を添えよと」
レオンハルトの指が紙を折った。
強く。
「……あの女」
クラリスのことだ。
“記録”を武器にする女。
泣き落としが効かない女。
そして何より苛立つのは、別の一点。
側近が、言いにくそうに付け足した。
「……殿下」
「現場で、伯爵家嫡男が言ったそうです」
「『ロウは誰の管轄だ』と」
レオンハルトの眉が跳ねた。
その言葉が意味するのは“医者の矜持”ではない。
“権限”だ。
“順序”だ。
(伯爵家を、支柱に収める)
レオンハルトの思考がそこで止まらない。
金の流れは侯爵家。
医療の流れは伯爵家。
神殿の正義は聖女。
その三つを束ねれば、王家は軍より強い。
命と金と正義が、手のひらに落ちる。
だから、伯爵家の医者を“外”に置いてはいけない。
外で民を診る医者は、民の尊敬を集める。
尊敬は、権威になる。
権威は、王権と衝突する。
レオンハルトは、静かに言った。
「……セレスティナ」
「はい」
「近づけ」
セレスティナの胸が勝手に上がる。
(来た)
(やっと、来た)
彼女は“愛”と誤解した。
でもこれは、命令だ。
国策だ。
レオンハルトは続けた。
「伯爵家嫡男に近づけ」
「“聖女”が、彼を選ぶ形を作れ」
「彼が王家に逆らえなくなる“絆”を作れ」
セレスティナは、涙を落としながら微笑みそうになった。
泣いているふりをしながら、勝った気になる。
(効く)
(距離を詰めれば、祝福は届く)
(私が選べば、彼は落ちる)
レオンハルトは、優しい声を作る。
「君ならできる」
そして、心の中で付け足す。
(落とせ)
(落ちれば、白尺は王家の柱だ)
(落ちなければ――白尺ごと潰す)
セレスティナは、笑わなかった。
笑わずに泣いた。
泣きながら、“狩る”女の目をしていた。
◇
同じ頃。
私は王都へ向かう準備を整えていた。
公爵が地図を広げる。
「ここから先は、王都の舞台だ」
ルーカスが言う。
「舞台へ上がるなら、台本を増やしましょう」
私は頷いた。
「増やす」
「でも燃料は要らない」
「水だけでいい」
ルーカスが紙束を差し出す。
新しい書式。
追加の証言。
検疫施療所の規定条文。
そして――
王家使者が“管轄外”を踏もうとした記録。
私はそれを受け取った。
「これで、王が見る」
公爵が静かに言った。
「王は見ている」
「王太子が王として立てるかどうかを」
私は封筒を閉じた。
黒い封蝋。
双頭の鷲。
冷たい印。
泣き落としの舞台に、また涙が落ちる。
でも私は知っている。
涙が燃えるほど、机の上の紙は濡れない。
だから私は、濡れないものだけを持って王都へ行く。
――舞台の上で、証拠を落とすために。




