第54話 王の沈黙、王太子の芝居、記録の刃
王都の空気は、紙より先に燃える。
だから私は、紙を先に走らせる。
黒い封蝋が冷たいまま固まるのを待ち、声明文を折り、封筒に収めた。
双頭の鷲。
アルヴェーンの印。
この印は「怒り」ではなく「順序」だ。
「王都へ」
私はルーカスに渡す。
ルーカスは迷わず頷いた。
「市場ではなく、宮廷の机へ直接」
「ええ」
公爵が短く言った。
「机の上の戦いだ」
――噂は舞台で燃える。
でも、決裁は机の上で落ちる。
私はその順序だけを信じる。
◇
王宮の奥。
玉座の間ではない。
もっと静かな執務室。
王は机に向かい、紙を読んでいた。
炎の明かりが、紙の端を揺らす。
けれど、王の指先は揺れない。
机の上には、二つの束がある。
ひとつは王太子側の報告。
もうひとつは、監察官経由で上がってきた“記録”。
王は、後者を先に読んでいる。
「……検疫区域で刃物」
王は淡々と呟いた。
「愚かだな」
そばに立つのは、王直属の部隊長。
金属のように静かな男。
王は部隊長を見ずに言った。
「投入の準備は?」
「命令ひとつで」
「まだだ」
王は紙をめくる。
「止めるのは簡単だ。止めた後が難しい」
部隊長は頷く。
王は言葉を続けた。
「王太子が“王の判断”をできるか、見ている」
「王の真似ではない。判断だ」
そして、紙の端を指で押さえた。
「越えたら切る。越えなければ任せる」
王の声は低く、ただ静かだった。
混乱を恐れてはいない。
混乱を利用する者を、測っている。
◇
同じ王宮。
舞台の方では、涙が燃料になっていた。
セレスティナの泣き声は、相変わらず甘く整っている。
「わたしが悪いのです……」
「わたしが未熟だから……」
その横で、レオンハルトが“守る男”の顔をして立つ。
「泣くな」
声は優しい。
優しいふり。
王太子は、優しいふりが上手い。
セレスティナは、睫毛を震わせたまま、内心で確信している。
(まだ、いける)
(泣けば、燃える)
(近づけば、祝福は届く)
一度だけ、あの伯爵家の医師と顔を合わせた。
その時は――魔女の気配があった。
境界の嫌な熱。
だから自分の“届き”が鈍ったのだと、彼女は結論づけた。
(距離のせい)
(目と鼻の先なら、絶対に効く)
(私の可愛さも、私の立場も、全部)
そういう女はいる。
そういう女が、聖女の衣を纏っている。
レオンハルトは泣くセレスティナを見下ろしながら、別の計算をしていた。
(白尺を、王家の柱に)
(医療の流れを、神殿の正義を、王家の指揮下に)
そのためには、彼女が必要だ。
泣ける女は、燃やせる。
燃やせる女は、都合がいい。
愛ではない。
利用だ。
互いに利用している。
セレスティナが小さく囁く。
「殿下……わたし、あの医師の心も、きっと」
レオンハルトは微笑んだ。
「君ならできる」
嘘ではない。
“できる”のは、落とすことではなく、燃やすことだ。
その時、側近が膝をついた。
「殿下。公爵家から声明が届きました」
レオンハルトの眉が動く。
「声明?」
側近は紙を差し出す。
黒い封蝋。
双頭の鷲。
レオンハルトが受け取った瞬間、セレスティナの涙が一瞬止まった。
黒は、舞台の空気を冷やす。
怖いのだ。
“記録”は、燃えないから。
レオンハルトは紙を開き、目を走らせ――口角を上げた。
「……なるほど」
「先に“例”を作ったか」
そして、側近に言う。
「使者を出せ」
「現場へ。こちらから“格式”で踏む」
セレスティナは、心の中で叫ぶ。
(だめ)
(近づく前に、紙で囲われる)
だから彼女は、さらに涙を強くした。
泣き落としの再点火。
燃料を増やす。
燃えれば、紙が濡れると思っている。
でも、紙は濡れない。
濡れるのは舞台だけだ。
◇
現場に、王家使者が来たのは夜明け前だった。
やけに整った隊列。
肩章。
王家の紋。
そして、先頭の男の声は、よく通る。
「王都の名において通告する」
「伯爵家嫡男レナート・フォン・ベルデンベルクが」
「貴族への暴行に及んだ件――」
言い切る前に、私は口を挟んだ。
「検疫規定に基づく記録がすでに存在します」
王家使者の目が細くなる。
「規定より、格式が上だ」
来た。
“空気の言葉”だ。
私は静かに言う。
「格式は、命の前で最優先にはなりません」
「ここは検疫施療所」
「衛生官の監督区域」
「刃物、拘束、脅迫、治療妨害」
「規定違反は身分に関係なく裁かれます」
使者が薄く笑う。
「公爵令嬢、口が立つな」
「だが、王都では“貴族を殴った”が先に燃える」
私は頷いた。
「燃えるでしょうね」
「だから、燃える前に刺しました」
私は机の上の束を示した。
監察官の書式。
衛生官の署名。
現場写真――ではなく、図面と時系列。
この世界の証拠は、紙だ。
「殴った事実は消しません」
私は淡々と言った。
「消さない代わりに意味を固定します」
「これは私刑ではない」
「救助と治療妨害排除です」
使者が言う。
「それは王都が決める」
「王太子殿下が――」
私は一歩だけ前に出た。
足音を大きくしない。
空気を揺らさない。
紙だけを揺らす。
「王が決めます」
使者の眉が僅かに動く。
私は続けた。
「王太子殿下の使者であるなら」
「王へ、記録を上げてください」
「――照会文も添えて」
ルーカスが、さらりと一枚差し出した。
そこには短い文言。
「本件に関し、侯爵家紋の指示系統の関与について照会する」
使者の目が、初めて揺れた。
侯爵の名は、舞台では強い。
だが“照会”は舞台の外へ引きずり出す。
舞台の外では、空気は買いにくい。
使者は喉を鳴らした。
「……侯爵家?」
私は頷いた。
「男爵は“紋章の下で動け”と自白しました」
「その発言は記録済みです」
「王都が格式で踏むなら」
「こちらは指揮系統で刺します」
沈黙が落ちた。
夜明け前の冷たい沈黙。
紙の音だけが聞こえる。
監察官がペンを走らせる音。
施療所の奥から、低い声が落ちた。
怒りを押し殺した、冷えた声。
「……ロウは、誰の管轄だ」
空気が一段、冷たくなる。
王家使者が眉を動かした。
「何だと?」
私は息を吐く。
やっと、土俵が揃った。
「検疫施療所です」
「衛生官と監察官の監督下」
「患者は――この場では“規定の管轄”です」
レナートの声が、もう一度だけ響いた。
「なら、王家の使者は」
「管轄外だ」
言い切ったのは、事実の形だった。
感情ではない。
順序だ。
王家使者の顔が、ほんの僅かに歪む。
格式で踏みに来た足元に、条文が刺さったからだ。
ルーカスが静かに補足する。
「治療妨害と検疫規定違反は、身分で免責されません」
「王都で裁くにしても、まず記録が必要です」
私は机の上の束を指で押さえた。
「――ここにあります」
「“誰が”動かしたかも」
「“どの紋章の下で”動いたかも」
私は答えない。
答えは紙ではない。
命だから。
使者は、最後に強がるように言った。
「王都で決する」
私は静かに言い返した。
「結構です」
「王都で決してください」
「ただし――記録の上で」
そして私は、もう一枚の封筒を示した。
黒い封蝋。
双頭の鷲。
「王都へ先に送っています」
「噂より先に、机へ」
使者は顔を歪めた。
噂は操れても、机は操りにくい。
机には、王が座るからだ。
◇
王宮では、王がまだ紙を読んでいる。
王太子はまだ舞台で泣かせている。
そして私は、現場で“例”を積み上げる。
どれだけ派手に燃やされても。
例は残る。
記録は残る。
私は心の中で言った。
(王は見ている)
(王太子が王として立てるか)
(立てないなら――王の部隊が来る)
その天井がある限り、私は焦らない。
焦るのは、空気を買う側だ。
夜が薄れ、空が白む。
遠くで鐘が鳴った。
王都の一日が始まる音。
泣き落としの舞台が、今日も始まる。
でも――
私はもう台本を置いた。
次は、舞台の上に“証拠”を投げる。




