第53話 泣き落としの再点火、王都の火種
王都へ飛ぶ噂は、矢より速い。
「伯爵家の嫡男が、貴族を殴った」
それだけでも燃えるのに――
「血が出た」
「検疫施療所で刃物騒ぎ」
「公爵令嬢が現場にいた」
燃料が勝手に足されていく。
私は、監察官の書式が揃うのを待ちながら、紙をもう一枚重ねた。
先手を打つ。
噂を追うのではなく、“順序”で噂を追い越す。
ルーカスが言う。
「王都の口に入る前に、こちらから“形”を出しますか」
「出す」
公爵が頷いた。
「公爵名義でいい」
私は封蝋を指先で押さえる。
黒い双頭の鷲。
今日の火は、黒で消す。
その時、監察官が低い声で言った。
「……王都から使者が来る」
「王家からだ」
空気が少しだけ硬くなる。
来るのは当然。
王都は“体裁”でできている。
体裁が揺れれば、王家が動く。
動かないと、王家が弱く見える。
そして。
動くのは、あの男だ。
レオンハルト。
◇
王家の使者が到着するより早く、噂はもう王宮の回廊を走っていた。
回廊の端で、銀鈴のような泣き声が響く。
「……わたしが悪いのです」
「わたしが未熟だから……」
「クラリス様が、あんなにも怒って……」
声は震えているのに、言葉は整っている。
泣き方も、角度も、完璧だ。
“聖女”の涙は、いつだって舞台用。
――セレスティナ。
彼女の周囲には、すでに人だかりができていた。
そして、人だかりの中心に立つ男は、顔を歪めている。
怒りで。
あるいは、誇りで。
「許せぬ」
レオンハルトが低く言う。
「聖女を泣かせるなど、国辱だ」
彼の声はよく通る。
通る声は、空気を動かす。
セレスティナは顔を上げ、涙で濡れた睫毛を震わせた。
「殿下……」
「違うのです」
「クラリス様は、もともと……魔女の側で……」
“魔女”。
その単語を出すタイミングも、彼女は計算している。
そして、彼女は続けた。
「殿下、わたし、見たのです」
「伯爵家の医師が……あの方が」
「わたしを見ても、微塵も心が動かないみたいに冷たくて……」
「でも、あれは近すぎたからです」
言い切る。
自分に言い聞かせるみたいに。
「一度、魔女の気配で……わたしの加護が“鈍った”ことがありました」
「でも、それは距離があったから」
「目と鼻の先なら――」
セレスティナは、指先を胸に当てて、囁く。
「わたしの祝福は、必ず届きます」
「……必ず、あの人の心も」
レオンハルトの眉が動いた。
不快。
嫉妬。
そして、焦り。
伯爵家ごときに、王太子が感情を乱されるのは屈辱だ。
だからこそ、彼は怒りを“正義”に着替える。
「医者ごときが」
レオンハルトは吐き捨てた。
「小さな石造りの診療所で、平民の血を洗っているだけの男が」
「王家と比べられるとでも?」
言葉は強い。
強いのに、裏返っている。
比べられているのは、自分だと分かっている。
周囲の貴族たちが囁く。
「でも……あの伯爵家のご子息、噂では……」
「殿下より、ずっと……」
「顔が……」
最後まで言わない。
言わないのに、耳には入る。
入ってしまう。
レオンハルトの手が、ぎゅっと握られた。
笑うための顔が、ひきつる。
セレスティナは、それを見て微笑みそうになった。
微笑んだら負ける。
だから泣く。
泣きながら、勝つ。
(殿下は、わたしの味方)
(涙は、正義の燃料)
(そして、あの医者も)
(近づけば、必ず落ちる)
セレスティナは、そう信じていた。
自分の可愛らしさ。
自分の立場。
自分の祝福。
全部が、世界を自分の味方にする――そういう女の確信。
彼女は知らない。
伯爵家の医師の視線の先にいるのが、涙ではないことを。
◇
その頃、私は王都へ送る声明文を整えていた。
“殴った”事実を消さない。
消さずに、意味を固定する。
【公爵家声明(要旨)】
•検疫施療所裏における未成年者拘束と刃物による脅迫を確認
•衛生官・監察官の監督下で記録を作成済
•当該行為は治療妨害および検疫規定違反
•いかなる身分であれ、規定違反は看過しない
•王都への照会は記録に基づき行う
ルーカスが言った。
「殿下は、“聖女が泣いた”で動きます」
「動くでしょうね」
私は封蝋を置く。
「だから、こちらは“泣く前に紙を出す”」
公爵が静かに言った。
「王都は舞台だ」
私は頷いた。
「なら、舞台の上に“台本”を置く」
ルーカスが微笑む。
「泣き落としに、先に条文を刺すわけですね」
「ええ」
私は淡々と言った。
「涙は燃料」
「でも、燃えたところを消すのは――水です」
「記録という水」
そして私は、もう一枚、付け足した。
“医師が殴った”という火種を、逆に王都へ返すための一文。
――「本件に関し、王都の関与(侯爵家紋の指示系統)について照会する」
空気を買う者は、空気で殴り返す。
なら私は、買えないものを投げる。
記録を投げる。
照会という槍を投げる。
王都の舞台で、泣き声が響く前に。
私は先に、紙の音を鳴らす。
◇
施療所の奥で、レナートの声が短く響く。
「固定できた」
ロウが、悔しそうに鼻を鳴らした。
「……こんなん、すぐ治るし」
「治る」
レナートが言う。
「治るまで、お前は動くな」
「……はぁ?」
生意気な声。
でも、その声があるだけで十分だった。
私は封筒を閉じた。
黒い双頭の鷲を、指で確かめる。
冷たい。
けれど、冷たいからこそ、燃えない。
(セレスティナは、まだ自分が勝てると思っている)
(泣けば、落ちると思っている)
(近づけば、祝福が効くと思っている)
そういう女はいる。
いるからこそ、こちらは順序で潰す。
泣き落としの舞台に、台本を置く。
そして、台本の行間に――
“次の追放”を挿し込む。
私は静かに息を吸った。
次は王都だ。
そして、泣くのは――誰か。
私ではない。




