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第52話 空気の火種、記録の水


検疫施療所の裏には、まだ血の匂いが残っていた。


消毒薬の匂いがそれを上から塗りつぶそうとしているのに、うまくいかない。


血は、消えるまで時間がかかる。


――そして噂は、血より早い。


レナートがロウに手を伸ばした瞬間、ロウが噛みつくみたいに言った。


「……おい」


「それ、やったら殺す」


「横はやめろ。姫みてぇなの」


レナートは一瞬だけ眉を動かした。


次の瞬間、何も言わずにロウの体を引き寄せる。


腰に腕を回す――のではなく、


背中を支え、もう片方の腕で太腿の外側をすくい上げて、


“胸に抱えるみたいに”縦に抱き上げた。


「……っ、ちょ」


ロウが反射で服を掴む。


掴んだ手に力が入らないのが分かって、余計に悔しそうな顔になる。


「大人しくしろ」


レナートは低く言った。


「落ちる」


「落ちねぇよ……!」


言い返す声は強がりなのに、目尻はまだ赤い。


「……これ、抱っこじゃねぇからな」


ロウがぼそっと言う。


「運搬。運搬だからな」


「うるさい」


レナートは歩幅を変えず、体温のある重さだけを確かめるみたいに腕を締めた。


「黙って掴まってろ、ロウ」


いつもの軽口が戻ったことに、私は少しだけ息をついた。


私は外に残った。


倒れている男と、その周辺の状況を――“記録”するために。


ルーカスはすでに帳面を開いている。


紙は強い。


今夜は、紙が命綱だ。


「来ます」


ルーカスが言った。


足音が複数。


迷いのない足音。


職務の足音。


角から現れたのは、監察官と衛生官だった。


衛生官は白い前掛けと、消毒用の手袋。


監察官は書式の束を抱えている。


そして、その後ろ――


“嫌な”顔がひとつ。


倒れていた男が、口の端を上げて笑った。


血で汚れた歯を見せて、わざとゆっくり起き上がる。


「おい、おいおい」


男は唾を吐いた。


「誰が俺を殴った?」


監察官が硬い声で言う。


「ここは検疫区域だ。騒ぐな」


男は肩をすくめる。


「検疫? 知るかよ」


そして、私を見てニヤついた。


「そこの“公爵令嬢”の連れだろ」


「伯爵家の坊ちゃんが俺を殴ったんだ」


わざと、言葉を選んでいる。


“伯爵家”“殴った”“貴族”。


燃えやすい単語だけを並べて、空気に火をつけようとしている。


監察官の眉が動いた。


衛生官が眉をひそめる。


「伯爵家?」


男は胸を張った。


張るほどの胸でもないのに張る。


「そうだ」


「俺は――男爵家だ」


「没落? 笑えよ。だが爵位は残ってる」


「貴族を殴ったってことは、分かるよな?」


空気が、ひやりと冷えた。


ここで“貴族”という単語が勝つと、話がねじれる。


ねじれると、侯爵の思う壺だ。


私は、あえて一拍置いた。


そして言う。


「あなたが男爵であることは、今この場の争点ではありません」


男の笑みが薄くなる。


「は?」


私は淡々と続けた。


「ここは検疫施療所の裏」


「衛生官の監督区域」


「刃物の使用、拘束、脅迫、治療妨害――すべて規定違反です」


「身分がどうであれ、規定は同じ」


男は笑い返した。


笑い返せているつもりで、焦りが混じっている。


「規定? そんなもん、上が握れば――」


「握りません」


監察官が先に言った。


私ではなく、監察官が言ったことが重要だった。


監察官の顔色が変わっている。


“上が握れば”の言い方が、あまりに露骨だったからだ。


男は舌打ちした。


「チッ……」


そして、視線を後ろへ投げる。


合図だ。


次の瞬間、空気が“整う”。


香油の匂いがした。


質の良い布が擦れる音。


笑顔の練習を積んだ足音。


侯爵家の使者が、姿を現した。


琥珀色の封蝋と同じ匂いを纏っている。


鍵と天秤、麦穂――侯爵の紋を胸元に下げ、柔らかく頭を下げた。


「失礼いたします」


声は丁寧。


姿勢も丁寧。


空気を買う人間の、完璧な所作。


「本件、少々行き違いがありまして」


「侯爵としては、ここで騒ぎが大きくなることを望みません」


望みません――と言いながら、望んでいる。


騒ぎは、買えるからだ。


買った上で、相手に押しつける。


それが侯爵のやり口。


使者は私を見て、さらに丁寧に言った。


「公爵令嬢殿、そして伯爵家のご子息殿」


「ここは一旦、穏便に」


「当家が――“体裁”を整えましょう」


体裁。


来た。


空気の言葉。


男爵が、勝ち誇ったように笑った。


「そういうことだ」


「俺は貴族だ。殴られた。終わりだろ?」


私は、静かに封筒を取り出した。


黒の封蝋。


双頭の鷲。


アルヴェーン公爵家の印。


使者の目が、ほんのわずかに泳いだ。


琥珀が買える空気と、黒が止める空気は別だ。


彼はそれを知っている。


私は封筒を開けずに、机の上に置いた。


置くだけで十分。


この封蝋は“言葉を要らない”。


そして、私は使者に向けて言った。


「穏便、結構です」


「ですが“体裁”ではなく“記録”で整えます」


使者が微笑む。


「記録も、当家で――」


「いいえ」


私は遮った。


「記録は、当家でも侯爵家でもありません」


「ここにいる監察官と衛生官が作ります」


衛生官が頷いた。


監察官も、無言で書式を取り出す。


彼らの手に渡った瞬間、これは“権限の記録”になる。


侯爵の空気が買いにくくなる。


私はルーカスに目配せした。


ルーカスが、すでに整理した紙束を差し出す。


「状況の要点です」


「拘束の痕跡」


「刃物」


「荷置き場の不審な物資」


「それらが検疫施療所の裏で行われたこと」


監察官が紙に目を落とし、眉間の皺を深くした。


「……荷置き場?」


衛生官が低い声で言う。


「検疫区域で、出所不明の物資を動かした?」


それは“衛生”の問題だ。


つまり、ここからは彼らの領域になる。


使者が、目を細めた。


「物資は、正規の――」


私は一言で切った。


「なら、荷札を見せてください」


使者の笑みが止まる。


止まった瞬間が答えだった。


男爵が焦って叫んだ。


「おい! 話が違うだろ!」


「俺は殴られた! 俺は貴族だ!」


私は彼に視線を向けた。


そして、はっきり言った。


「貴族であるなら、なおさら規定を守りなさい」


「あなたの身分は、罪を軽くしません」


「罪を重くします」


「示しがつかないから」


男爵の顔が歪む。


周囲の空気が、少しだけこちらに傾いた。


空気は買える。


でも、空気は“恥”にも弱い。


監察官が言う。


「男爵、名乗れ」


「所属と、指示系統を明らかにしろ」


男爵は黙った。


黙るしかない。


言えば侯爵が燃える。


言わなければ自分が燃える。


使者が一歩前に出た。


柔らかい声で、しかし冷たく。


「この者は当家の正式な配下ではありません」


出た。


切り捨て。


空気を買う者は、火種を抱えない。


男爵が叫ぶ。


「はぁ!?」


「紋章の下で動けって言ったのは――」


私は、その瞬間を待っていた。


“紋章の下”という言葉は、指揮系統の匂いがする。


私は静かに言う。


「今の発言、記録してください」


監察官がペンを走らせる。


衛生官が頷く。


使者の目が、初めて明確に揺れた。


私は続ける。


「侯爵家が空気を買うのは勝手です」


「でも、検疫区域を舞台にするのは違反です」


「医師の施療を妨げるのは違反です」


「未成年者を拘束し、刃物で脅すのは――」


私は一拍置いた。


「体裁で済む話ではありません」


沈黙。


静かに、しかし確実に、場が“規定”へ寄っていく。


その時、施療所の中から声がした。


レナートだ。


いつもの医者の声。


でも少しだけ硬い。


「包帯、替える」


「鎮痛の処置をする」


ロウの小さな返事が続く。


「……へーきだって」


「黙れ」


短い。


でも、命が戻る音だった。


私は封蝋の黒を指で押さえ、監察官に言った。


「これが、連盟入口の“例”になります」


「空気で燃やすのではなく、記録で鎮火する例に」


監察官が頷いた。


「……分かった」


そして、使者に向けて言う。


「侯爵家の関与についても照会する」


使者は微笑んだまま、声だけを柔らかくした。


「もちろん」


もちろん――と言いながら、目は笑っていない。


私も笑わない。


笑ったら、空気に飲まれる。


私は心の中で言った。


(来る)


(次は、もっと露骨に来る)


そしてそれは、たぶん。


“殴ったこと”を燃料にする形で来る。


でも、もう怖くない。


火種は見えた。


水もある。


記録という水が。


私はルーカスに囁いた。


「次は、侯爵の“表の顔”を壊す」


ルーカスが静かに頷く。


「はい。手順で」


施療所の中から、ロウの声がまた聞こえた。


小さく、意地っ張り。


「……先生、治療だけしてろっての」


それに、レナートの低い声。


「黙れ」


私は少しだけ息を吐いた。


(守れた)


(――今夜は)



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