第51話 足を奪う刃、呼べない名前
ロウが出ていってから、嫌な予感だけが増えていく。
予感は紙に残せない。
けれど、予感が“当たる”場所は大抵ひとつだ。
――人が、影に引きずり込まれる場所。
私は監察官への追加届け出を終え、机の端を指で叩いた。
指先が冷たい。
「ルーカス」
「はい」
「施療所の裏」
ルーカスは迷わず頷いた。
「行きましょう」
公爵が立ち上がる。
「手順は?」
「残します」
私は封筒を一通だけ取り、黒い封蝋を指でなぞった。
双頭の鷲。
出すと面倒になる。
でも――今は面倒でいい。
面倒にしないと、守れない。
「監察官に一言」
私はルーカスに言った。
「“未成年者の拘束疑い、検疫区域での暴力の可能性”」
ルーカスが頷く。
「規定が動きます」
公爵が短く言った。
「走れ」
◇
施療所の裏手は、消毒薬の匂いが濃い。
灯りは一つ。
影が多い。
だから、音がよく響く。
――足音。
――布が擦れる音。
――誰かの息が荒い音。
私は角を曲がった瞬間、見てしまった。
ロウが、地面に膝をつかされている。
背中を押さえつけられ、手は後ろに回されて、布で縛られていた。
逃げようとした形跡がある。
でも逃げ切れなかった形跡もある。
土の跡が、膝に濃い。
「……余計なものを見たな」
男が笑っていた。
笑いながら、刃をロウの足首へ当てている。
深くない。
でも、次に沈む角度だった。
ロウは歯を食いしばっていた。
声を出さない。
出したら、施療所の中が起きる。
騒ぎになって、“物資”が消える。
その計算が、ロウの顔に出ていた。
(ばか)
(賢いから、ばかになる)
私は一歩踏み出しそうになって、止めた。
今踏み出したら、相手は刃を沈める。
それが分かる。
ルーカスが、私の斜め後ろで囁く。
「クラリス様、言葉は要りません」
「記録を先に」
私は息を吸った。
そして、大声を出さずに言った。
「――検疫区域での脅迫と暴力」
「その刃は、衛生規定に違反します」
男がこちらを見た。
目が細くなる。
「何だ? お嬢さん」
ロウの目が、私を見た。
一瞬だけ。
それだけで伝わる。
――来るな。
――今は、来るな。
私は来ない。
来ない代わりに、紙で刺す。
「監察官に届け出は済んでいます」
「この場は検疫施療所の裏。規定の監督下」
「あなたの顔も、記録に残す」
私は淡々と告げた。
相手は笑った。
「記録?」
「そんなもん、後で燃やせば――」
その瞬間。
影の奥から、別の足音が響いた。
急いでいるのに、音が整っている。
走っているのに、無駄がない。
レナートだった。
白い外套の裾が揺れる。
顔がいい。
顔がいいせいで、場が一瞬だけ静まる。
それが腹立たしいほどに“強い”。
男が嗤った。
「おいおい、医者か」
「治療だけしてろよ」
「その手で殴ったら終わりだろ? 信用が――」
ロウが叫んだ。
声が割れた。
「先生、来んな!」
縛られたまま、必死に身を捩る。
「……治療だけしてろって!」
レナートの目が、ロウの足首の刃を見た。
そして、男の顔を見た。
その順序が、怖かった。
冷静で、正確で――殺意の順序だ。
「離せ」
声が低い。
宣告だ。
男が笑いながら刃を押し当てた。
「ほら、動けば沈むぞ」
次の瞬間。
レナートの拳が動いた。
音がした。
硬い音。
骨じゃない。
拳が肉を叩く音。
男の笑みが潰れる。
倒れかけたところへ、もう一発。
そしてもう一発。
止まらない。
「……先生!」
ロウの声がまた割れる。
泣いている。
泣いているのに、必死に強がっている。
「やめろって……!」
「先生の手、汚すな……!」
レナートは止まらない。
怒りが収まらない。
収める理由が見つからない。
殴って、殴って――
白い外套に、赤い点が散った。
ルーカスがレナートの腕を掴む。
「レナート様!」
公爵が低く言う。
「やめろ。今は“記録”を残せ」
その言葉で、レナートの呼吸が一瞬だけ途切れた。
拳が落ちる代わりに、男の襟首が持ち上げられ、床へ叩きつけられる。
そして、冷たい声。
「二度と」
「俺の前で、そいつに触るな」
レナートは、ロウへ向き直った。
縛りを一息で切る。
縄が切れた瞬間、ロウは立とうとして――足首が抜けたみたいに崩れた。
くるぶしの上、外側がぱっくりと裂けている。
血が靴に染み、床に滴る。
「……っ」
ロウは声を出さない。出せない。
痛みで息が詰まっているのに、強がりだけは捨てない。
震えが止まらない。
「俺が……勝手に動いた」
「クラリス守るつもりで……」
息が詰まって、ロウは唇を噛んだ。
そして、やっと落ちた本音。
「……ごめん」
「先生の手、汚した」
レナートの目が、一度だけ細くなる。
怒っているのに、怒れない目。
それが一番怖い。
「黙れ」
レナートは低く言った。
それから、血のついた手で頬を拭かずに――
外套の内側、まだ汚れていない布で乱暴に拭った。
「謝るな」
「次は、俺が間に合わない」
そして、声が医者に戻る。
「痛むところを言え」
「……歩けるか、ロウ」
ロウは涙を拭って、いつもの顔に戻そうとした。
戻らない。
でも戻そうとする。
それがロウだ。
「……へーき」
「へーきだっつってんだろ」
私は、息を吐いた。
(生きてる)
(壊れてない)
でも――
殴った手は汚れた。
この汚れを、誰が拭う?
答えはひとつだ。
私だ。
紙で。
記録で。
私は男の倒れている姿を見下ろし、静かに言った。
「名前を言いなさい」
「あなたが誰の金で動いているか――記録に残す」
男は笑おうとして、笑えなかった。
笑えない顔で、唾を吐く。
「……侯爵だよ」
「金で買ったんだ」
「空気ごとな」
私は頷いた。
(来た)
(やっぱり、来た)
双頭の鷲の黒い封蝋を、私は掌の中で握った。
冷たい。
でも、今はそれでいい。
「じゃあ、燃料は奪う」
私は淡々と言った。
「泣き落としの前に」
「記録で焼き尽くす」




