表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/69

第51話 足を奪う刃、呼べない名前


ロウが出ていってから、嫌な予感だけが増えていく。


予感は紙に残せない。


けれど、予感が“当たる”場所は大抵ひとつだ。


――人が、影に引きずり込まれる場所。


私は監察官への追加届け出を終え、机の端を指で叩いた。


指先が冷たい。


「ルーカス」


「はい」


「施療所の裏」


ルーカスは迷わず頷いた。


「行きましょう」


公爵が立ち上がる。


「手順は?」


「残します」


私は封筒を一通だけ取り、黒い封蝋を指でなぞった。


双頭の鷲。


出すと面倒になる。


でも――今は面倒でいい。


面倒にしないと、守れない。


「監察官に一言」


私はルーカスに言った。


「“未成年者の拘束疑い、検疫区域での暴力の可能性”」


ルーカスが頷く。


「規定が動きます」


公爵が短く言った。


「走れ」



施療所の裏手は、消毒薬の匂いが濃い。


灯りは一つ。


影が多い。


だから、音がよく響く。


――足音。


――布が擦れる音。


――誰かの息が荒い音。


私は角を曲がった瞬間、見てしまった。


ロウが、地面に膝をつかされている。


背中を押さえつけられ、手は後ろに回されて、布で縛られていた。


逃げようとした形跡がある。


でも逃げ切れなかった形跡もある。


土の跡が、膝に濃い。


「……余計なものを見たな」


男が笑っていた。


笑いながら、刃をロウの足首へ当てている。


深くない。


でも、次に沈む角度だった。


ロウは歯を食いしばっていた。


声を出さない。


出したら、施療所の中が起きる。


騒ぎになって、“物資”が消える。


その計算が、ロウの顔に出ていた。


(ばか)


(賢いから、ばかになる)


私は一歩踏み出しそうになって、止めた。


今踏み出したら、相手は刃を沈める。


それが分かる。


ルーカスが、私の斜め後ろで囁く。


「クラリス様、言葉は要りません」


「記録を先に」


私は息を吸った。


そして、大声を出さずに言った。


「――検疫区域での脅迫と暴力」


「その刃は、衛生規定に違反します」


男がこちらを見た。


目が細くなる。


「何だ? お嬢さん」


ロウの目が、私を見た。


一瞬だけ。


それだけで伝わる。


――来るな。


――今は、来るな。


私は来ない。


来ない代わりに、紙で刺す。


「監察官に届け出は済んでいます」


「この場は検疫施療所の裏。規定の監督下」


「あなたの顔も、記録に残す」


私は淡々と告げた。


相手は笑った。


「記録?」


「そんなもん、後で燃やせば――」


その瞬間。


影の奥から、別の足音が響いた。


急いでいるのに、音が整っている。


走っているのに、無駄がない。


レナートだった。


白い外套の裾が揺れる。


顔がいい。


顔がいいせいで、場が一瞬だけ静まる。


それが腹立たしいほどに“強い”。


男が嗤った。


「おいおい、医者か」


「治療だけしてろよ」


「その手で殴ったら終わりだろ? 信用が――」


ロウが叫んだ。


声が割れた。


「先生、来んな!」


縛られたまま、必死に身を捩る。


「……治療だけしてろって!」


レナートの目が、ロウの足首の刃を見た。


そして、男の顔を見た。


その順序が、怖かった。


冷静で、正確で――殺意の順序だ。


「離せ」


声が低い。


宣告だ。


男が笑いながら刃を押し当てた。


「ほら、動けば沈むぞ」


次の瞬間。


レナートの拳が動いた。


音がした。


硬い音。


骨じゃない。


拳が肉を叩く音。


男の笑みが潰れる。


倒れかけたところへ、もう一発。


そしてもう一発。


止まらない。


「……先生!」


ロウの声がまた割れる。


泣いている。


泣いているのに、必死に強がっている。


「やめろって……!」


「先生の手、汚すな……!」


レナートは止まらない。


怒りが収まらない。


収める理由が見つからない。


殴って、殴って――


白い外套に、赤い点が散った。


ルーカスがレナートの腕を掴む。


「レナート様!」


公爵が低く言う。


「やめろ。今は“記録”を残せ」


その言葉で、レナートの呼吸が一瞬だけ途切れた。


拳が落ちる代わりに、男の襟首が持ち上げられ、床へ叩きつけられる。


そして、冷たい声。


「二度と」


「俺の前で、そいつに触るな」


レナートは、ロウへ向き直った。


縛りを一息で切る。


縄が切れた瞬間、ロウは立とうとして――足首が抜けたみたいに崩れた。


くるぶしの上、外側がぱっくりと裂けている。

血が靴に染み、床に滴る。


「……っ」

ロウは声を出さない。出せない。

痛みで息が詰まっているのに、強がりだけは捨てない。


震えが止まらない。


「俺が……勝手に動いた」


「クラリス守るつもりで……」


息が詰まって、ロウは唇を噛んだ。


そして、やっと落ちた本音。


「……ごめん」


「先生の手、汚した」


レナートの目が、一度だけ細くなる。


怒っているのに、怒れない目。


それが一番怖い。


「黙れ」


レナートは低く言った。


それから、血のついた手で頬を拭かずに――


外套の内側、まだ汚れていない布で乱暴に拭った。


「謝るな」


「次は、俺が間に合わない」


そして、声が医者に戻る。


「痛むところを言え」


「……歩けるか、ロウ」


ロウは涙を拭って、いつもの顔に戻そうとした。


戻らない。


でも戻そうとする。


それがロウだ。


「……へーき」


「へーきだっつってんだろ」


私は、息を吐いた。


(生きてる)


(壊れてない)


でも――


殴った手は汚れた。


この汚れを、誰が拭う?


答えはひとつだ。


私だ。


紙で。


記録で。


私は男の倒れている姿を見下ろし、静かに言った。


「名前を言いなさい」


「あなたが誰の金で動いているか――記録に残す」


男は笑おうとして、笑えなかった。


笑えない顔で、唾を吐く。


「……侯爵だよ」


「金で買ったんだ」


「空気ごとな」


私は頷いた。


(来た)


(やっぱり、来た)


双頭の鷲の黒い封蝋を、私は掌の中で握った。


冷たい。


でも、今はそれでいい。


「じゃあ、燃料は奪う」


私は淡々と言った。


「泣き落としの前に」


「記録で焼き尽くす」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ