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第50話 裏の空気、赤髪のスイッチ


侯爵家が表で買えなかった空気を、裏で買い直している。


その手触りが、今日の宿場にはあった。


紙は規定に縛られる。


けれど、人の動きは金でほどける。


だから彼らは裏口を使う。


私は机上の地図を指でなぞった。


門。


宿。


荷置き場。


そして――検疫施療所。


表の舞台の外側に、生活の影がある。


「裏の流れを止める」


私は言った。


ルーカスが頷く。


「止めるなら、出所です」


公爵は短く言う。


「証拠だな」


その時、扉の前でロウが靴紐を結び直した。


赤髪は目立つ。


けれど彼は、目立つことを自覚していながら、目立たない動き方を知っている。


それが怖い。


私が止めたいのはそこだ。


「ロウ」


名前を呼ぶと、彼は顔だけこちらに向けた。


生意気な笑い。


でも目の奥は、もう外の影を見ている。


――仕事の目。


「戻ってきなさい」


私が言うと、ロウは肩をすくめた。


「当たり前だろ」


軽口なのに、胸の奥が冷える。


「待って」


私は言葉を足した。


「見に行くなら、施療所の“中”には入らないで」


「検疫は規定が重い。変に触れたら、こっちが面倒になる」


ロウは鼻で笑った。


「わーってるって」


ルーカスが、紙束の端を整えながら言った。


「人の動きは、紙より早いです」


「だからこそ、早く見つけないといけない」


私は頷いた。


そして、その言葉をロウに向ける。


「――急ぐのはいい」


「でも、急ぐなら“相談”もセットよ」


ロウは一瞬だけ黙った。


その沈黙が答えだった。


相談する時間がない状況が、もう来ている。


扉が開く。


冷たい空気が入ってくる。


ロウは出ていく直前に、ふっと振り向いた。


犬が飼い主を確認するみたいな、ほんの一瞬。


視線が、室内を探す。


レナートはいない。


いないのに、ロウは一瞬だけ眉を寄せる。


――確認したい相手がいる顔。


そして何事もなかったように、出ていった。


私は息を吐いた。


「……嫌な予感がする」


公爵が言う。


「予感は記録にする」


ルーカスが補足した。


「予感が当たる前に、手を打ちましょう」


私たちは表の手を締め直した。


監察官に追加の届け出。


配布物の回収状況の照合。


宿の帳場への聞き取り。


全部、“順序”を積む作業だ。


順序は強い。


でも、順序は遅い。


遅いからこそ、裏で人が動く。


――そして、その裏に一人、速い子がいる。



ロウは、宿場の裏手に回った。


私は見ていない。


でも見える。


彼のやり方はいつも同じだ。


“視線を落とし、耳を立てる”。


目立つ赤髪を隠さず、逆に人の意識から外す。


あの子は、存在で騒がせるのに、動きで消える。


検疫施療所の近くは、薬の匂いが薄く漂う。


消毒薬。


乾いた布。


汗。


そして――金属の匂い。


荷車の車輪の油の匂い。


ロウのスイッチが入る。


入る瞬間は、誰にも分からない。


本人にすら、たぶん。


「……こっちか」


小さく呟く声が、風に溶ける。


施療所の裏には、荷置き場がある。


本来は隔離用の布や、消毒液や、薬草が置かれる場所。


そこに今日は、乾物の樽が多すぎた。


布の束が厚すぎた。


薬草の匂いが薄すぎた。


(混ぜてる)


(紙を、物資に偽装してる)


ロウは、荷の積み方を見る。


重いものが上にある。


軽いものが下にある。


普通は逆だ。


下を守ってる。


――割れ物。


印刷物。


封筒。


つまり、燃料。


彼は近づきすぎない。


触らない。


でも、見て分かる。


護衛の靴が新しい。


荷車の泥が王都のもの。


馬の鼻革が高級品。


「……王都からだな」


ロウは、いつもより低い声で言った。


そして、足元の影を見た。


影が、二つ増えている。


誰かが、ロウを見ている。


ロウは気づかないふりをした。


気づかないふりをして、わざと遠回りする。


遠回りしながら、視界の端で相手の歩幅を測る。


追ってきている。


追ってきているのに、速すぎない。


捕まえる気がない。


――“誘導”だ。


(やべぇな)


(でも今なら、掴める)


ロウは一瞬だけ迷う。


ここで戻れば、安全だ。


でも戻ったら、空気は買われる。


クラリスが戦う前に、負ける。


(今だろ)


(今、俺が動けば)


ロウは路地へ入った。


狭い。


暗い。


風が通らない。


消毒薬の匂いが濃くなる。


検疫施療所の裏だ。


その瞬間――背後の足音が増えた。


増えて、近い。


「……おい」


男の声。


笑っている。


笑っているのに、温度がない。


ロウは振り返らずに、短く返す。


「何だよ」


生意気な声。


でも肩は、ほんの少しだけ落としている。


逃げる準備じゃない。


戦う準備。


「赤髪」


「お前、余計なとこ見てたな」


ロウは舌打ちした。


(あー……)


(やっぱりか)


ロウは、心の中でクラリスを呼ぶ。


声には出さない。


出せない。


ここで声を出せば、施療所の中の患者が起きる。


衛生官が来る。


そして――騒ぎになる。


騒ぎになれば、相手の思う壺だ。


ロウはゆっくりと両手を上げた。


降参じゃない。


視線を散らすための動きだ。


「知らねぇよ」


「荷が多いなって思っただけだ」


男が笑う。


「そういうのをな」


「余計って言うんだよ」


刃の匂いがした。


小さい。


短い。


でも、狙いは分かる。


殺す気じゃない。


――逃げ足を奪う気だ。


ロウの背筋が冷えた。


足が、ほんの少しだけ引ける。


引けた時点で負ける。


でも、引けない。


引けない理由がある。


(クラリスを守る)


(今なら、止められる)


(止めないと、また泣き落としが勝つ)


ロウは息を吸って、言った。


「……やってみろよ」


強がり。


でもそれしかない。


それがロウだ。


刃が動いた。


影が伸びた。


そして――


遠くで、扉が開く音がした。


施療所の方からだ。


誰かが来る。


間に合うのか。


間に合わないのか。


ロウは歯を食いしばった。


目だけが、暗闇の奥で光る。


(先生――)


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