表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/69

第5話 港町ラザル、灰の司祭


夜の出発は、決して詩的ではない。

馬車の軋む音、護衛の足音、荷の確認。灯りを最小限に絞った段取りは、戦場のそれに近い。


公爵家は表向き、静かだった。

それでも噂は走る。神殿の舌は速い。


「“公爵令嬢クラリスは異端に堕ちた”——そう流れています」


馬車の向かいで、ルーカスが言った。


黒髪は夜の闇に溶ける。

高い背を折って座っているのに、狭い馬車の空気を支配する圧がある。


身体つきは引き締まり、服の上からでも肩と腕の線がわかる。

書類を扱う指は固い。

剣ではなく規則で戦う人間——なのに、近づきがたい強さがある。


(監査局って、筋トレも義務なのかな)


私は内心でそんなことを思いながら、白猫の微笑を保った。


「神殿は、私を“魔女”にしたいんでしょうね」


ルーカスが頷く。


「この国では、境界神派の巫女は“聖女”とは呼ばれない。

神殿の正統から外れた者をまとめて、ただ——魔女と呼ぶ」


善悪ではない。

区分だ。


でも、その区分は、命取りになる。


「港町ラザルに着くのは明け方です」


ルーカスが地図を開き、指で海沿いの道をなぞる。


「“灰の司祭”がいるなら、ここ。境界派の小礼拝堂」


「小礼拝堂」


「神殿の監視を避けるための呼び名です。実態は——取引所に近い」


取引。契約。

境界神の匂いがする。


袖の中で境界紙がわずかに熱を返した。

紙に文字が浮かぶ。


『港町ラザル

目的:第三者証人の確保

対象:灰の司祭

対価:契約(未定)』


(未定。……嫌な予感しかしない)


馬車が港町へ入る頃、空が薄く白んだ。

潮の匂い。魚と藻と、濡れた木材の匂い。


市場はまだ眠っている。

しかし港は眠らない。荷揚げの声、船の綱が擦れる音、遠くで鴎が鳴く。


ルーカスがマントの襟を立てた。


「目立ちます。あなたの髪は、特に」


「雪に銀を混ぜたみたいって言われますからね」


「自覚があるのが厄介です」


「ありがとう」


「褒めていません」


そのやりとりだけで、少しだけ緊張がほどけた。


港の裏手。

魚市場のさらに奥、古い倉庫群の影に、小さな礼拝堂があった。


十字架ではない。

境界神の印——直線と円が交差した、どこか“封蝋”に似た紋。


扉を叩く前に、ルーカスが私を見た。


「交渉はあなたが?」


「はい。契約を扱うのは私です」


「危険なら止めます」


「止めないで。これは“仕事”よ」


ルーカスの目が一瞬だけ細くなる。

それが承認なのか諦めなのか、私はまだ分からない。


扉を叩いた。


三回。短く。


すぐに、内側から鍵が外れる音がした。


扉が開く。


現れたのは、司祭というより——灰色の影だった。


頭から膝下まで覆う灰色の外套。深いフード。

鼻から下は布で隠され、見えるのは目元だけ。


若い。二十代前半か、せいぜい半ば。

なのに目の下に薄いクマがある。徹夜の痕が、そのまま刻まれている。


姿勢はわずかに猫背気味で、弱そうにも見える。

けれど視線だけが鋭く、冷たい。

本を読み込みすぎた人間の目——現実より条文を先に思い出す類の目だ、と直感した。


「……公爵令嬢」


声は低く、乾いている。

港の風みたいに、感情の温度がない。


「名乗っていないけど?」


私が言うと、灰の司祭は肩をすくめた。


「名は、契約で後から決まる。

先に決まるのは——代償だ」


ルーカスが一歩前へ出た。


「監査官だ。脅迫なら——」


灰の司祭は、そちらを見もしない。


「監査官。紙の神の犬。

君の脅しはここでは通らない。通るのは署名だけだ」


(この人、嫌い。……でも使える)


私は礼をする。淑女の角度で。


「灰の司祭。あなたに頼みがある」


「頼みは契約でしか受けない」


「わかってる」


私は袖の中で境界紙を取り出した。

表に出すのは初めてだ。空気が少しだけ冷える。


灰の司祭の目が、紙に落ちる。


「……境界紙」


「第三者証人になってほしい。神殿裁判を“契約審査”に変えるために」


灰の司祭は、しばらく黙った。

次に、ゆっくりと笑う気配。


「できる。……もちろん」


「もちろん?」


「対価がいる」



(来た)


私は境界紙を開いた。

紙が勝手に文字を浮かべる。


『契約案:第三者証人(灰の司祭)

提供:証言/条文提示/審査参加

対価:未定』


灰の司祭が、淡々と言う。


「君が“魔女”として裁かれるのは、神殿の都合だ。

でも、君が“境界神の契約執行者”として立つなら、話は変わる」


「何を望むの?」


灰の司祭の視線が、私の喉元ではなく——袖口へ落ちる。


「君の“署名”だ」


ルーカスの空気が一瞬張った。


「署名は身分を縛る。公爵令嬢にそんな契約を——」


灰の司祭が言葉を遮る。


「違う」


「……違う?」


「縛るのではない。——繋ぐ」


灰の司祭は、短く告げた。


「境界神派の名簿に、君の名を載せろ。

正統神殿が“魔女”と呼ぶ者たちの側に、君が立つと宣言しろ」


私は動かなかった。

動けば負ける。


(つまり、完全に異端側に立て、と)


それは危険だ。

でも、今さら安全なんてない。


私は境界紙を見た。

紙の端に、薄い文字が浮かぶ。


『助言:

“所属”は対価ではなく保険になる

ただし、条件を付けよ』


(条件を付ける)


私は顔を上げ、灰の司祭を見る。


「いいわ。署名する」


ルーカスが一歩踏み出しかけた。

私は指先だけで制した。


「ただし条件がある」


灰の司祭が頷く。


「言え」


「私は神殿を潰すためにここに来たわけじゃない。

公爵家と領民を守るため。——その範囲を超える契約はしない」


灰の司祭の目が、少しだけ細くなる。


「慎重だな」


「現代で痛い目を見たの」


思わず言ってしまい、私は口を閉じた。


(言い過ぎ)


灰の司祭は、しかし笑う気配を見せた。


「いい。契約は範囲を決めるためにある」


彼は蝋燭に火を点け、机の上に小さな印章を置いた。

境界神の印——直線と円。


「署名しろ」


境界紙が、勝手に条文を整える。


『対価:所属宣言(境界派名簿への署名)

条件:公爵家および領民への不利益を直接招く命令を無効とする

履行:灰の司祭は神殿裁判に第三者証人として出席し、契約審査を要求する』


(……よし。これなら)


私はペンを取る。


薄金の瞳を伏せ、署名する。


クラリス・フォン・アルヴェーン。


その瞬間、紙が熱を持ち、指先が一瞬だけ痺れた。

境界の印が、私の皮膚の下で淡く光った気がした。


灰の司祭が言う。


「これで君は、名実ともに“魔女”だ」


「この国の言い方なら、ね」


「神殿は喜ぶ。敵ができたからな」


「喜ばせておくわ」


私は微笑む。


「敵がいる方が、条文は増える」


灰の司祭が初めて、はっきりと笑った。


「いい顔だ。白猫の顔で噛むやつは、嫌いじゃない」


ルーカスが低く言った。


「……時間がない。神殿裁判は三日後だ」


「二日で準備する」


灰の司祭が言う。


「裁判の場で、君は一度負けろ」


私は眉を動かした。


「負けろ?」


「“追放”を確定させろ。

神殿が勝ったと思った瞬間——条文で首を落とす」


(……趣味悪い。最高)


私は息を吐いて、笑いそうになるのを堪えた。


「わかった。じゃあ私は、追放される」


「追放は逃亡じゃない」


灰の司祭が言う。


「境界へ渡るための通行証だ」


境界紙が、最後に一文を浮かべた。


『次:神殿裁判

目的:追放確定→契約審査で逆転

警告:夜神派の追加契約が発動する可能性』


私は紙を閉じる。


(夜神派。……あれも来る)


でも、来ればいい。


私は立ち上がった。


「灰の司祭。名前を教えて」


司祭は少しだけ首を傾ける。


「契約が終わったら」


「ケチ」


「契約が好きなだけだ」


ルーカスが扉へ向かい、私に視線を投げた。


「帰ります。公爵へ報告を」


私は頷いた。


外へ出ると、港の風が銀白の髪を揺らした。

潮の匂いが肺に入る。


追放が近い。

神殿裁判も近い。


でも、もう手は打った。


(泣けば勝てる時代は終わり)


白猫の微笑のまま、私は心の中で言った。


(——契約で勝つ)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ