第48話 黒の封蝋、双頭の鷲
侯爵家の琥珀の封蝋が監察官の机に置かれた瞬間、宿場の空気がわずかに変わった。
目に見えないのに、皆が息を浅くする。
金は音を立てずに人を動かす。
だから厄介だ。
監察官は、こちらが先に受理した書類を重ねたまま、侯爵家の封書を開いた。
中身を読んだ彼の視線が、ほんの少しだけ私から逸れる。
その逸れ方が、いやに“慣れている”。
(……王都式だ)
ここは連盟の入口のはずなのに。
王都の社交と寄進の匂いが混じっている。
「確認が必要だ」
監察官が言った。
「この宿場の規定では……」
言いかけて、止まる。
止まった瞬間が答えだった。
規定ではなく、“別の何か”を見ようとしている。
ルーカスが一歩前に出た。
声は穏やかだが、言葉は鋭い。
「確認とは、誰にですか」
監察官は曖昧に唇を動かし、言葉を濁した。
「上へ」
私は、机上の紙束をそっと整えた。
上へ回される――つまり、時間が奪われる。
時間が奪われれば、噂が先に走る。
噂が走れば、また泣き落としが勝つ。
(ここで止める)
私は息を吸って、紙束の一番下から一通の封筒を抜いた。
黒い封蝋。
光を吸うような色。
そこに刻まれたのは、双頭の鷲。
片方が内を睨み、片方が外を睨む。
アルヴェーン公爵家の印章だ。
公爵が、今まで一度も出さなかった切り札。
理由は簡単だ。
出せば、これは“領主の戦”になる。
連盟に踏み込みすぎれば、外交になる。
だから、ここまで温存していた。
私は封筒を机に置いた。
叩かない。
押しつけない。
ただ、置く。
監察官の目が、黒に吸い寄せられた。
顔色が変わるのが分かった。
連盟の人間にとっても、公爵家の封蝋は重い。
それは威圧ではない。
“責任”の重さだ。
公爵が低く言った。
「確認なら、ここで済ませろ」
「上へ回す前に、まず規定の順序を守れ」
侯爵家の琥珀の封蝋が、急に軽く見えた。
金は空気を動かす。
でも、権威は空気を止める。
監察官は喉を鳴らし、黒い封筒を見つめたまま言った。
「……アルヴェーンの印だな」
公爵は頷くだけ。
それ以上は言わない。
“言葉で威張らない”ところが、また厄介に強い。
私は、淡々と告げた。
「私たちは、すでに受理されている届け出があります」
「配布物の出所記録も、貴官が確認すると言った」
「侯爵家の書面は“追加”です」
「順序は変わりません」
監察官の指が、机上の紙を一枚ずつなぞった。
先に受理した印。
時刻。
署名。
――動かしようがない。
動かせば、自分の規定違反が記録になる。
監察官は短く言った。
「追加として記録する」
そして、さらに続けた。
「配布物については、許可の有無を照合し、許可がなければ回収する」
私は息を吐いた。
(よし)
(火を付けさせない)
侯爵家の使者が、初めて露骨に表情を曇らせた。
笑顔が崩れたのではない。
笑顔が“薄くなった”。
金で買うはずの空気が、買えない時の顔だ。
ロウが後ろで小さく笑った。
「……黒、つえぇな」
私は振り返らずに返す。
「黒じゃないわ」
「責任が強いの」
ルーカスが小声で囁く。
「公爵家の印章は、最終手段です」
「出した以上、向こうも“相応”を返してきます」
私は頷いた。
もちろん分かっている。
出したからには、相手も本気になる。
だからこそ。
ここで勝つ必要がある。
私は侯爵家の封書を見た。
琥珀の封蝋。
鍵と天秤、麦穂。
金と流れの匂い。
(あなたたちは、空気を買う)
(私たちは、順序を買う)
公爵が言った。
「行くぞ」
「次の宿場へ移動する」
「ここは締めた」
監察官が最後に、黒い封筒へ視線を戻し、口を開いた。
「……公爵令嬢」
私は顔を上げた。
「この件は、連盟入口の“例”になる」
例。
前例。
それは味方にも敵にもなる。
使い方次第だ。
私は微笑まず、頷いた。
「ええ」
「例は、こちらが作ります」
黒の封蝋は、もうしまわない。
双頭の鷲は、影でこそ効く。
そして今――影を作る相手が現れたのだから。




