第47話 琥珀の封蝋、空気の差し替え
連盟の入口に近い宿場は、王都より静かだった。
静かというより、音が整理されている。
怒号がない。
怒鳴り合いがない。
代わりに――札と印と、順番がある。
荷車は列を作り、門番は淡々と刻限を告げ、監察官は紙を見て頷くだけ。
感情の舞台ではない。
生活の舞台。
私はその空気に、少しだけ救われていた。
「ここで燃えたら、面倒ね」
小さく呟くと、ルーカスが頷いた。
「入口は、火が広がりやすいです」
公爵も無駄な言葉を挟まない。
この宿場で私たちがすべきことは一つ。
――先に、空気を締める。
私は紙束の中から、昨夜受領した紹介状を出した。
封筒は薄銀。
蛇杖に小冠、月桂。
医政を担う伯爵家の紋。
白の領域を預かる家が、静かに差し出した札だ。
「監察官を呼んでください」
私が言うと、宿場の者は迷わず走った。
紹介状の力ではない。
紹介状が“制度の言葉”だからだ。
この場所では、声より紙が強い。
監察官はすぐに来た。
白い上着、乾いた眼差し。
私は挨拶をして、紙を差し出す。
「通行と医療活動について、事前に届け出ます」
監察官は目を通し、短く頷いた。
「受理」
それだけ。
ここでは“受理”が命綱だ。
受理された瞬間に、噂は単なる噂になる。
「配布物についても」
私は続けて、別の紙束を出した。
神殿の救済声明。
丁寧な言葉で、丁寧に泣く文章。
「この宿場ですでに配布され始めています。出所の記録をお願いします」
監察官の眉がほんの少しだけ動いた。
感情は出さない。
だが、規定違反の匂いには反応する。
連盟の監察官は、そこだけは確実だ。
「配布許可の有無を確認する」
「許可がない場合は回収」
淡々とした声が、私の背中を支えた。
(よし)
(泣き落としの燃料を“空気”ごと薄くする)
その時、門の方がざわついた。
ざわつきといっても、王都のそれとは違う。
人々が一斉に息を止めるような、硬い緊張。
私は視線だけで門の方を見た。
一台の馬車が入ってきた。
飾り立てていない。
だが、車輪の材が違う。
護衛の数が違う。
そして何より――封を預かる従者が、胸の前で抱えた文書箱が違う。
軽いのに重い。
金と噂の匂いがする。
ルーカスが、私の横で小さく息を吐いた。
「……侯爵家」
私は頷いた。
使者が監察官に近づき、封書を差し出す。
監察官の手元で、封蝋が光った。
琥珀色。
鍵と天秤、麦穂。
――金と流通を握る侯爵家の紋。
私は、笑いそうになった。
(来た)
(泣き落としの“紙”じゃない)
(泣き落としの“空気”を作る家が動いた)
公爵が、低い声で言った。
「王太子の差し金か」
ルーカスが答える。
「可能性は高いです。侯爵は……利益のある方につきます」
私は監察官の背中を見た。
監察官は封蝋を見る目が変わらない。
だが、受け取る手つきがわずかに慎重だ。
連盟は侯爵を恐れている。
それは金のせいじゃない。
“流れ”のせいだ。
流れを変えられる者は、規定すらねじる時がある。
私は言葉を選んだ。
(焦らない)
(ここは感情で勝つ場所じゃない)
(“先に受理した”という事実が盾)
私は監察官に向かって、静かに言った。
「今朝、私たちは貴官に届け出をし、受理されています」
「配布物の記録も、貴官が確認すると言った」
「――その手順が、ここでは正です」
監察官が一度だけ私を見た。
そして短く頷いた。
「正しい」
たった一言。
でも、これが連盟の言葉だ。
侯爵の封蝋がいくら琥珀でも、受理された手順は覆せない。
その時、ロウが後ろで小さく舌打ちした。
「……金くせぇ」
私は振り返らずに返す。
「金は空気を買うの」
ロウが小声で言った。
「じゃあ、俺らは?」
私は息を吸って、言った。
「私たちは――規定を買う」
ルーカスが、苦笑した。
「クラリス様らしい」
公爵は何も言わない。
ただ、侯爵家の使者の動きを見ている。
見て、記憶している。
公爵もまた、記録の人だ。
侯爵家の使者は監察官に何かを囁いた。
監察官は頷く。
文書が開かれる。
周囲の宿場職員の目が、わずかに揺れる。
空気が、動く。
――ここからが勝負だ。
私は紙束を抱え直した。
薄銀の封蝋に指を置く。
蛇杖に小冠、月桂。
白の領域を預かる伯爵家の札。
(泣き落としは燃える)
(でも燃えるには、空気が要る)
(空気を握る侯爵が来たなら)
(こちらも、空気を締め直す)
私は一歩だけ前に出た。
声は大きくしない。
ここでは大声は弱い。
「監察官」
「侯爵の書面が何であれ、手順の順序は変えられません」
「先に受理された届け出があり、先に記録がある」
「その上で、追加の書面が来たのなら――」
私は一拍置き、続けた。
「“追加”として記録してください」
監察官の目が、ほんのわずかに細くなった。
そして、頷いた。
「追加として記録する」
私は息を吐いた。
(よし)
(空気の差し替えは、させない)
侯爵家の使者が、初めてこちらを見た。
表情は笑っている。
でも目が笑っていない。
金と噂の家の目だ。
私は微笑んだ。
笑顔は武器じゃない。
この場では、ただの礼儀だ。
武器は紙の方にある。
「ようこそ、連盟へ」
私は静かに言った。
「ここは、規定の国です」




