第46話 伯爵の手、規定の網
夜明け前の宿場は、音が少ない。
火の爆ぜる音。
遠くの馬の鼻息。
床板のきしみ。
それだけで、世界が固く感じる。
私は机に紙束を並べ、昨夜の「受理印」の写しを上に置いた。
宿場監察官の署名。
時刻。
目撃者の名。
――記録は、燃えない。
泣き落としが燃料なら、これは消火の水だ。
扉がノックされる。
「入って」
ルーカスが入ってきた。
疲れた顔のまま、でも目だけは冴えている。
「連盟側にも、神殿の“救済声明”が回り始めています」
私は頷いた。
「予定通りですね。向こうは先に泣いて、こちらを悪にする」
ルーカスが紙を一枚差し出す。
文面は丁寧だ。
丁寧すぎて、吐き気がする。
“聖女は迫害されている”。
“祈り続けている”。
“どうか救いの手を”。
(泣いてるのは紙の方だ)
私は受け取らず、指先で押し返した。
「監察官に写しを提出して。配布物の出所を記録に残して」
「はい」
ルーカスはすぐに書き込む。
速い。
この男が味方でよかった、と心底思う。
その時、外で馬車の音がした。
宿場の門をくぐる、控えめな車輪音。
軍の馬車ではない。
貴族の馬車でも、誇示しない音だ。
(……来た)
私は立ち上がり、中庭へ出た。
公爵はすでにそこにいた。
腕を組んで、何かを待つ顔。
馬車が止まり、扉が開く。
降りてきたのは、上品な服装の男――使者だ。
腰の動きに無駄がない。
頭を下げる角度も、覚えたもの。
「公爵閣下、並びに――クラリス・フォン・アルヴェーン様」
私の名まで正確に呼んだ。
公爵が低く言う。
「伯爵家の者か」
「はい」
使者は封蝋付きの文書筒を差し出した。
封蝋の色は白に近い銀。
刻印は――杖と蛇、そして冠。
医と権威の紋。
伯爵家。
王都の医政を握り、宮廷医局の人事にも影響を持つ家。
神殿と正面衝突はしない。
だが、“止める”力はある。
(ついに、動いた)
使者は続けた。
「伯爵家当主より、レナート様へ」
「並びに、貴方様方へ“連盟宿場における通行と医療活動”に関する紹介状です」
私は目を細めた。
紹介状。
つまり、連盟側の監察官や衛生官に対する“顔”。
そして――ここでの規定を、こちらが有利に使える札。
公爵が封を切ろうとするのを止め、私が言った。
「受領は“記録”に残します。宿場監察官を呼んでください」
公爵が頷く。
使者は一瞬だけ、私を見た。
(やっぱり、噂通りの子だ)とでも言いたげに。
私は笑わない。
書類は笑顔より強い。
監察官が呼ばれ、受領の署名が入る。
時刻も入る。
これで伯爵家の動きも、記録になった。
表で戦わない家ほど、記録を嫌う。
でもそれでも動いた。
(レナートを守るために)
(でも“神殿と殴り合うため”ではない)
私はそこが好きだ。
現実的で、冷たい。
冷たいから頼れる。
使者が最後に一言だけ落とした。
「当主より」
「――神殿と正面衝突は避けよ」
「だが、医療への妨害は“疫病と同等の罪”として扱う」
私は内心で頷いた。
(なるほど)
(正面から殴らない)
(規定で縛る)
うちと同じだ。
ルーカスが小声で言う。
「伯爵家の名が出れば、連盟の衛生官は動きます」
公爵が短く言った。
「動かせ。ここからは“世論”の戦いだ」
私は手紙を胸に抱えた。
ここで初めて、レナートの方を見る。
……けれど、彼は表情を変えない。
変えないまま、使者を見た。
言葉もない。
ただ、受け取るべきものだけ受け取る目。
(この人は)
(実家に守られているのに、守られている顔をしない)
(だから、腹が立つくらい格好いい)
私は視線を戻した。
今はそれどころじゃない。
「これで連盟宿場の監察官に“先に”話ができます」
「泣き落としが回っても、こちらは規定と衛生で先に縛る」
ロウが後ろから言う。
「……また紙かよ」
私は振り返った。
「紙です」
「殴らずに勝てるから」
ロウが鼻で笑った。
「……わかったよ」
言い方は生意気だ。
でも目は真剣だ。
私は地図を広げ直す。
「次の宿場へ移動します」
「そこが、連盟への入口になる」
「入口で燃やされた物語は厄介です」
ルーカスが頷いた。
「入口で消します」
公爵が言う。
「入口で折る」
私は受領印の写しを、紙束の一番上に置いた。
新しい札が増えた。
伯爵家。
そして、紹介状。
泣き落としは燃える。
けれど燃やすには、空気がいる。
空気を締めれば、火は消える。
私は息を吸って、言った。
「行きます」
「今度は、連盟の舞台です」




