第45話 涙の自動運転、そして伯爵の静かな手
セレスティナは、静かな部屋で指先を見下ろしていた。
爪の先が、ほんの少しだけ赤い。
祈祷の時間を長く取れば、こうなる。
泣く必要はない。
泣いたことにしてくれる者がいるからだ。
「聖女様……お辛いでしょう」
侍女が震える声で言う。
神官が眉を寄せ、同情を形にする。
寄進を集める者は、涙の理由を整える。
セレスティナは顔を上げ、微笑んだ。
「私は大丈夫です」
言いながら、わずかに視線を伏せる。
これで、“我慢している”になる。
そして周囲が勝手に、続きを書く。
「……クラリス様のせいで」
誰かが言った。
誰が言ったかは重要ではない。
誰かが言えば、他が繰り返す。
繰り返されれば、物語になる。
セレスティナは否定しなかった。
否定しないことが、最も上品な承認になる。
あくまで善良に見えるまま、物語だけを完成させられる。
扉が叩かれた。
入ってきたのは、王太子レオンハルトだった。
背が高く、整った顔。
王都の人間が見れば、誰もが「美しい」と言うだろう。
「セレスティナ」
彼は部屋に入るなり、声を落とした。
「君が泣いていると聞いた」
セレスティナは首を振る。
「泣いていません」
その言葉は本当だ。
けれど本当であることは、今は価値がない。
レオンハルトは、セレスティナの指先の赤みに視線を留めた。
「……これを見て、泣いていないと言えるのか」
彼の声が、わずかに震える。
怒りだ。
正義の燃料としては上等な熱だった。
「クラリスが、君を傷つけた」
彼は言った。
「君が祈るほどに、彼女は――魔女としての本性を」
セレスティナは、その言葉を受け取って、目を伏せた。
否定しない。
煽らない。
ただ、“悲しそうに見える”だけでいい。
レオンハルトは机上の文書を手に取った。
連盟向けの写し。
誰が作った文面かは、彼が一番よく知っている。
彼の署名を、彼の側近が整え、神殿が配布し、民が噂にする。
泣き落としは、自動で回る。
「連盟には、先に物語を流す」
レオンハルトが言った。
「クラリスが何を言おうと、“先に泣いた方”が勝つ」
セレスティナは、ゆっくり顔を上げた。
「殿下」
「私は……大丈夫です」
その言葉が、彼をさらに苛立たせるのを知っている。
“守られるべき存在”が、守りを拒む。
それは男の正義感を刺激する。
「大丈夫である必要はない」
レオンハルトが吐き捨てた。
「泣いていればいい」
言った瞬間、彼は自分の言葉の粗さに気づいたのか、咳払いをした。
セレスティナは、心の中で小さく笑った。
(泣いていればいい)
(なんて便利な言葉)
彼は“泣かせる側”として最適だ。
自分の口で脚本を完成させる。
レオンハルトは、窓辺に立って外を見た。
夜の王都。
神殿の灯り。
祈りの列。
彼は、そこに自分の正義を見る。
それでも、ほんの一瞬だけ。
彼の思考が別の場所へ逸れた。
レオンハルトは、ふと過去の光景を思い出していた。
社交会。
絹と宝石と香水の夜。
女たちが、彼の周囲で微笑み、声を弾ませる――
それはいつもの光景だったはずだ。
だが、あの夜だけは違った。
——-
視線の流れが、途中で逸れた。
彼を越えて。
金髪の男へ。
伯爵家の嫡男。
医師。
――それだけのはずだった。
いや、正確には。
“医師”などと呼ぶのも、妙に腹が立つ。
王都の貴族を診る宮廷医でもない。
学会を牛耳る名士でもない。
庶民の中に降りて、石造りの小さな診療所で、日銭を相手に手を動かす。
あの、しみったれた仕事場。
血と薬草と汗の匂いのする場所で、
「先生」と呼ばれているだけの男だ。
――それなのに。
女たちは、あの男を見る時だけ、目が違った。
「……あの方、まるで絵画みたい」
「え、レオンハルト様より?」
「殿下もお美しいけど……」
「でも、何段階も落ちるよね」
囁き声。
扇の向こうで交わされる、無遠慮な評価。
レオンハルトは、笑顔のまま視線を外さないよう努めていた。
王太子として。
この場の中心として。
“余裕”を見せるために。
(馬鹿げている)
(私は王宮に住み)
(祭りごとを動かし)
(軍を動かし)
(国境の地図を、夜ごと塗り替える)
(あの男は、石造りの小屋で、包帯を巻いているだけだ)
規模が違う。
責任が違う。
背負っているものが違う。
そう言い切れるはずなのに――
言い切れば言い切るほど、胸の奥の黒い塊が大きくなる。
しかも。
当の本人は、まったく興味を示さなかった。
女たちが熱に浮かされようと、
視線を絡め取ろうと、
噂が膨らもうと。
彼は一切、拾わない。
微笑みもしない。
媚びもしない。
利用もしない。
ただ淡々と、医療の話しかしない。
それがまた、癪に障る。
(……舐めているのか)
(それとも、本当に興味がないのか)
——
後者だと気づいた時、
レオンハルトは自分の掌が汗ばんでいるのを知った。
あれは努力して得た無関心ではない。
最初から持っている男の態度だ。
――最初から、選ばれる側の顔だ。
比べられた。
話したこともない相手に。
伯爵家の男に。
“庶民の医者”に。
「殿下」
側近の声で、現実に引き戻される。
レオンハルトは唇の裏を噛んだ。
(……あの男は)
(いつか、膝をつかせる)
(そうでなければ、気が済まない)
だから。
セレスティナの涙を使う。
クラリスの罪を膨らませる。
あの男も、まとめて巻き込む。
その方が合理的だ。
その方が王太子らしい。
――そうだ。
これは嫉妬ではない。
国のための処理だ。
レオンハルトは、心の中でそう言い聞かせた。
言い聞かせる必要がある時点で、もう負けていることに気づかないふりをして。
「……あの医師も、クラリス側についた」
彼は吐き出すように言った。
「ただの同行ではない。もう、選んだ」
セレスティナは答えない。
答える必要がない。
彼が勝手に“敵”を増やしてくれる。
「伯爵家が動かぬのも不自然だ」
レオンハルトが続けた。
「医療に通じた家が、後継を泥に沈めるのを黙って見ているはずがない」
セレスティナは、そこで初めて瞬きをした。
(……気づいたのね)
伯爵家。
医療の家系。
表では神殿と争わない。
けれど裏では、損得で動く。
レオンハルトは、側近に目で合図した。
「伯爵家には、こちらから“余計な誤解”を届ける」
「彼らが動けば、医師は鎖で引ける」
セレスティナは、微笑を崩さない。
(動くなら、動けばいい)
(動いたものは、記録に残る)
(記録は、いつか条文で刺せる)
その時、侍女が新しい文書を差し出した。
「神殿より、“救済声明”の最新版です」
セレスティナは指先で紙を撫で、内容を読まないまま頷いた。
読む必要がない。
この声明は、彼女の涙の代わりに泣く文章だ。
涙の燃料は、紙で作れる。
レオンハルトが言った。
「明日から、連盟の宿場にも配れ」
「事故が起きた時に」
「人々が先に信じる物語を作る」
セレスティナは静かに言った。
「殿下は、お優しいのですね」
褒め言葉は、男を加速させる。
彼は、自分が正しいと思って動き始める。
扉が閉じた後、部屋はまた静かになった。
セレスティナは椅子に腰を下ろし、目を伏せた。
泣かない。
泣かないから、周囲が泣いてくれる。
そして、もう一つ。
彼女は知っていた。
伯爵は、“動く”。
ただし表でではない。
神殿と正面衝突するほど愚かではない。
けれど、後継を守るためなら、静かな手を伸ばす。
(指輪を貸したのは、合図)
(あれは守りでもあり)
(鎖にもなる)
セレスティナは微笑んだ。
(なら、面白くなる)
(動いた者から、順番に落とせばいい)
彼女は祈るふりをして、次の文面を待った。
泣き落としは、今日も勝手に回る。
そして次は――
連盟の舞台で燃やす番だ




