第43話 宿場の規定、今夜の勝ち筋
二つ目の宿場は、夕暮れの匂いがした。
馬と汗と煮込みの湯気。
旅人の声が多く、荷車が詰まり、誰もが一日分の疲れを背負っている。
そして――通りの奥だけ、空気が違った。
香が甘い。
声が柔らかい。
笑い方が、やけに軽い。
私は一瞬だけ足を止める。
レナートは当然のように視線を外し、護衛の兵が咳払いをして進路を変えた。
周囲の男たちも、妙に目を泳がせたり、壁の染みを眺めたりしている。
(……ここは、そういう“暗黙のルール”がある場所)
そして、それはたぶん「揉めごとが起きやすい」場所でもある。
ロウは、通りの奥を見ない。
見ないけれど、周りの反応を観察している。
眉がほんの少しだけ寄る。
(分からなくても、合わせることはできる)
それだけで、私は胸の奥が少しだけ軽くなった。
すれ違いざま、派手な香りの女がロウに笑いかけた。
「坊や、迷ったの?」
ロウは瞬きを一つして、首を傾げる。
「……別に」
それだけ言って、視線を外す。
逃げたというより、周囲に合わせた。
(良い)
(少しずつでも、“生活の側”に戻っている)
中庭のある宿に入ると、馬車は一息ついた。
連盟印の宿場だ。
王国の神殿前とは違う。
ここでは、感情ではなく規定が先に来る。
私は受付に封蝋付きの通行証を出す。
宿の監察官は声を荒げず、淡々と確認し、淡々と頷いた。
「滞在許可」
――それだけ。
(やっと、“生活の舞台”)
私は紙束を膝に置き、頭の中で勝ち筋を組み直す。
神殿の白衣は国境の外で動けない。
だから、外の手――灰色を使う。
灰色は規定を嫌う。
規定は証拠を残すから。
なら、こちらは先に“記録”を作る。
「事故に見せたいなら、事故の前に手を打つ」
私が地図を広げると、ロウが中庭の端を見た。
視線の動きが変わる。
さっきまでの拗ねた顔が消える。
口数が減る。
語尾が落ちる。
仕事のスイッチ。
ロウが、私にだけ聞こえる声で言った。
「いる」
「中に二」
私は視線を上げない。
「どこに」
「水桶の男」
「あと、馬の口押さえてるやつ」
レナートが淡々と言う。
「追跡役だな」
ロウが短く頷く。
「宿の人間の顔してる」
(なるほど)
(“事故”を作るのに、宿の内側が一番都合がいい)
私は紙束を取り出し、宿場規定の写しを引いた。
連盟印の宿場には、必ず規定がある。
火事。
盗難。
喧嘩。
それぞれの責任の所在。
監察官への報告手順。
そして――“署名”。
私は指で条項をなぞる。
(今夜、相手がやりたいのは)
(こちらの誰かを「加害者」にすること)
(もしくは「規定違反」にして足止めすること)
なら、こちらは逆にする。
(事故が起きた瞬間に)
(相手が“責任を取らされる形”を作る)
レナートがロウを見る。
視線だけで、線を引く。
無理をするな。前に出るな。
ロウは小さく顎を引いた。
反発の言葉が喉まで来て、飲み込む。
私はそのやり取りを、紙束の端から見ていた。
(守り方が、もう“医者”だけじゃない)
(あの人は今、ロウを“戦力”として扱わせないために立っている)
ロウがため息を落とす。
その呼吸の落ち方が、少し柔らかい。
(この子は)
(守られるのに慣れていない)
(だから、守られるたびに腹が立つ)
私は紙束を閉じ、顔を上げた。
「今夜は、宿場規定で守ります」
ロウがこちらを見る。
「規定?」
「はい」
「相手が“事故”を作るなら」
「こちらは“記録”で潰す」
ロウが小さく息を吐いた。
仕事の目のまま、言う。
「……俺は見てる」
「動かずに、拾う」
私は頷く。
「見てください」
「そして、言葉を短く」
「必要なものだけでいい」
ロウが舌打ちする。
「……わかってる」
レナートがロウを見る。
視線だけで確認する。
無理をするな。
前に出るな。
ロウは小さく頷く。
その瞬間、通りの影が一つ、こちらを掠めた気がした。
フードが深い。
顔は見えない。
目元だけ。
存在だけが浮いているのに、次の瞬間にはもういない。
ロウの眉がわずかに動く。
「……今の」
私は聞く。
「何ですか」
ロウは一拍置いて、言葉を選んだ。
「分かんねぇ」
「でも、さっきの灰色とは違う」
レナートが淡々と言う。
「なら、気に留めておけ」
私は心の中で頷く。
(灰色が二種類いる)
(追跡役と、観察者)
(観察者は、今すぐ刃を振らない)
(なら、今夜の敵は追跡役の方)
外の灯りが増える。
人の声が減り、影が濃くなる。
私は紙束を抱え直した。
(今夜、勝つ)
(この宿場は、感情の舞台じゃない)
(規定の舞台だ)
そして私は、規定で勝つ。




