第42話 境界の外、別の手
国境を越えた途端、空気が変わった。
匂いが違う。
土が乾いていて、草が尖っている。
道の石も、積み方が少し荒い。
それだけで分かる。
――ここは、もう「内側」じゃない。
馬車はしばらく走り、最初の中継所で止まった。
中立都市へ向かう主要路の、検問兼休憩の小さな宿場だ。
建物は低く、壁は厚い。
入り口に掲げられた紋章は、見慣れない連盟印。
兵の代わりに、灰色の外套を着た監察官が立っている。
クラリスが降りる。
封蝋付きの通行証を示す。
監察官は声を荒げない。
紙を受け取り、淡々と目を走らせ、淡々と頷いた。
「通行許可」
それだけで終わる。
――感情が舞台に上がらない。
クラリスの肩から、ほんの少し力が抜けた。
(やっと、“生活の舞台”だ)
馬車の中に戻ると、ロウが窓際で外を見ていた。
さっきまでの緊張がまだ残っている。
でも、顔には出さない。
出さないけど、目が動き続けている。
レナートが薬箱を開けた。
「巻き直す」
ロウが反射で言う。
「平気」
レナートは返事を聞かない。
手際が速い。
包帯をほどき、皮膚の状態を見て、必要なところだけ当て直す。
痛みの逃げ道も残す。
ロウは舌打ちして、窓の外へ顔を向けたまま言った。
「……さっきの白」
クラリスが紙束を膝に置く。
「柱の影ですね」
ロウは短く頷く。
「筒、渡してた」
「封書じゃない」
レナートが目を上げる。
「硬かったな」
ロウが言う。
「中身、紙じゃねぇ」
クラリスが淡々と聞く。
「何に見えました?」
ロウは一拍置いてから、言葉を削って出した。
「……印章か、札」
「紋章の札」
「命令の“形”だけ作るやつ」
クラリスが頷く。
「つまり」
「国境の外で、別の権限を使う」
ロウが、ふっと笑う。
笑うというより、鼻で息を吐く。
「追ってくる気、満々」
レナートが包帯を留め終え、薬包を置いた。
「飲め」
ロウが受け取る。
「……苦いの、もういい」
「飲め」
「……チッ」
飲む。
飲んでから、ロウは窓の外をもう一度見た。
宿場の外。
荷車が二台。
商人が三人。
兵が四人。
その中に――“違う”のが混じっている。
立ち方が違う。
目線が違う。
風を読んでる。
人を見てる。
(……あれ)
ロウの目が止まった。
灰色の外套。
監察官とは別の灰色。
背中が丸い。
フードが深い。
顔は見えない。
でも、足音が軽い。
(……軽い、のに)
(重い)
ロウの喉が鳴った。
クラリスがそれに気づいた。
「見えました?」
ロウは短く言う。
「灰色」
クラリスの指が、紙の端を揃える。
「監察官ではない?」
ロウが頷く。
「違う」
レナートが、窓の外を一瞬だけ見る。
その視線は短い。
でも、十分だった。
「……追跡役だ」
クラリスが淡々と言う。
「神殿が直接動けないから」
「外の手を使う」
ロウがぼそっと言う。
「傭兵?」
クラリスが頷く。
「その可能性が高いです」
「国境外では、神殿の白衣より」
「金で動く灰色の方が厄介です」
ロウが舌打ちする。
「……最悪」
言いながら、目は冷えている。
仕事の目だ。
クラリスは馬車の床に地図を広げた。
「ここから中立都市まで、二日」
「宿場は三つ」
ロウは即座に言う。
「二つ目で来る」
クラリスが顔を上げる。
「理由は?」
ロウは即答する。
「ここは人が多い」
「一つ目は様子見」
「二つ目は、道が狭い」
「逃げ道が減る」
レナートが淡々と言う。
「正しい」
ロウがむっとする。
褒められると、腹が立つ。
なんでか分からない。
「……別に」
レナートは気にしない。
薬箱を閉じる。
「暴れるな」
ロウが反射で返す。
「暴れねぇよ」
クラリスが淡々と釘を刺す。
「暴れなくていいです」
「見て、拾ってください」
ロウは小さく息を吐く。
「……わかった」
馬車が再び走り出した。
宿場を離れる。
その瞬間、ロウは窓の外の灰色を見た。
灰色は、こちらを見ていない。
見ていないのに、ついてくる。
視線を投げない追跡は、慣れている。
――昔、散々教え込まれたやり方だ。
ロウの腹の奥で、冷たいものが静かに沈んだ。
(来る)
(来るなら)
(情報を先に取る)
ロウは、目を閉じた。
呼吸を一つ。
仕事のスイッチが入る。
クラリスが小さく言った。
「中立都市に着けば、こちらの勝ちです」
レナートが淡々と言った。
「着かせる」
ロウは目を開け、窓の外の道を見た。
「……着く」
短い。
言い切り。
その言葉だけで、馬車の中の空気が揃った。
そして、その夜。
二つ目の宿場の手前で――
馬車の進行方向に、荷車が一台、横倒しになっていた。
道を塞ぐように。
偶然に見せかけて。
あまりに、下手で。
だからこそ、厄介だ。
クラリスが言った。
「来ましたね」
レナートが立ち上がる。
ロウは動かない。
動かずに、見ている。
情報を取る。
殴らずに、勝つために。
闇の組織で覚えた手が、今は味方のために使われる。
馬車が止まった。
外で、足音が増える。
灰色が、やっと姿を見せた。




