第41話 境界線、視線の仕事
国境が見えてきた。
道が、妙に整っている。
石が敷かれ、杭が立ち、旗が揺れている。
境界の門――というより、検問のための“舞台”が先にある。
馬車が減速した。
護衛の兵が、無言で配置につく。
クラリスは紙束を抱え直し、封蝋を指で確かめた。
レナートは薬箱を閉じ、膝の上に置いた。
いつでも開けられる位置。
ロウは窓の外を見ていた。
痛みはある。
でも、今はそれが遠い。
耳に入る音が変わる。
馬の鼻息。
金具の擦れる音。
兵の靴音。
そして――声。
「次の馬車、止めろ」
「封蝋の確認は、第二担当がやる」
「神殿の連絡は……まだ来ていない」
ロウの目が、ほんの少しだけ細くなった。
(第二担当)
(担当替え)
(……今日、何かある)
ロウは、呼吸を一つ整えた。
口の中の唾を飲み込み、余計な熱を落とす。
そして、視線だけを動かす。
兵の肩章。
腰の剣。
革紐の結び方。
立ち位置。
誰が前で、誰が後ろか。
誰が“止め役”で、誰が“捕まえる役”か。
(あれ、王家の兵)
(でも……混じってる)
(白が一人、後ろの影)
ロウの視線が止まる。
検問所の柱の影。
白衣の袖が、一瞬だけ覗いた。
でも前には出てこない。
出てこない白は、悪い白だ。
クラリスがロウの様子に気づいた。
紙束から目を上げずに、小さく言う。
「何か見えますか」
ロウは返事を急がない。
言葉を削る。
必要なものだけにする。
「白がいる」
「前じゃない。後ろ」
「王家の兵に、混じってる」
クラリスの手が、紙の端を揃える。
動きは変わらない。
でも、呼吸が一つだけ深くなる。
「人数は」
ロウは即答する。
「一。たぶん伝令」
「逃げ道、塞ぐ役じゃない」
レナートが静かに言った。
「神殿が直接手を出せない場にしている」
ロウは窓の外から目を離さずに言う。
「……さっきの検問で、手ぇ出したからな」
言い方はいつもの調子。
でも、声は低い。
軽くない。
馬車が止まった。
扉の外で金属音。
「封蝋の確認だ!」
声が上がる。
今度は神殿の声じゃない。
王家の兵の声だ。
違う舞台。
違う役者。
クラリスが一歩前へ出る。
封蝋を示す。
「王命に基づく移送です」
「封蝋はここに」
兵が紙を受け取る。
目を走らせる。
――一瞬だけ、眉が動いた。
ロウはその動きを見逃さない。
(読んだ瞬間、引っかかった)
(どこだ)
(封蝋じゃない)
(……宛名だ)
兵が、紙を持ったまま、後ろを振り返る。
柱の影の白に、目で合図した。
ロウの中で、冷たいものが落ちた。
(繋がってる)
(王家の兵の顔して、神殿に見せてる)
ロウは、クラリスにだけ聞こえる声で言う。
「今、見せた」
「宛名で引っかかってる」
クラリスは返す。
「宛名は?」
ロウは即答する。
「中立都市の検疫監察」
「――そこが嫌なんだろ」
クラリスが息を吐く。
「理由は一致しました」
クラリスは兵に向けて淡々と言う。
「その紙は、写しです」
「原本は、すでに別便で送っています」
兵の手が止まる。
ロウは内心で小さく笑った。
(やっぱ準備してたんだな)
兵が言う。
「……原本を見せろ」
クラリスは首を振る。
「原本はここにありません」
「封蝋の一致は、写しと照合できます」
「照合は、規定に従ってください」
兵が歯噛みする。
押し切れない。
押し切れば、規定違反になる。
その瞬間。
柱の影の白が、ほんの少しだけ動いた。
合図だ。
“次”を出せという合図。
ロウの視線が、白の手元に刺さる。
布袋。
細長い筒。
(……封書?)
(違う)
(筒が硬い)
(中身は紙じゃない)
ロウは瞬きもしない。
白が筒を兵に渡す。
兵が受け取り、クラリスの前に出した。
「追加命令だ」
封蝋。
新しい。
乾きが甘い。
匂いがまだ立っている。
クラリスが目を落とす。
ロウは、その封蝋の角を見た。
欠けてる。
押しが浅い。
急いで作った。
(……偽物)
ロウは口を開かない。
“偽物だ”と言ったら、舞台に乗る。
今は、観察だけ。
クラリスが淡々と言った。
「署名がありません」
兵が言う。
「殿下の意向だ」
クラリスが返す。
「意向は署名ではありません」
「責任は署名です」
ロウは、そのやり取りを見ながら、別のものを拾った。
兵の指先。
紙の持ち方。
汗。
目線。
(……こいつ、命令の中身知らない)
(持たされただけだ)
(だから怖い)
ロウは、レナートをちらりと見た。
レナートは無言。
でも、視線がロウに一瞬だけ落ちる。
“動くな”の目。
ロウは小さく頷く。
(わかってる)
クラリスが兵に言う。
「この追加命令は、規定上“停止”扱いです」
「責任者の署名がない」
「よって、あなたが止めるなら、あなたが署名しますか?」
兵の顔色が変わる。
署名なんてしたくない。
責任なんて取りたくない。
後ろの白を見た。
白は、動かない。
助けない。
見捨てる。
ロウは、その瞬間を見た。
白の正体が、透ける。
(こいつら、味方じゃねぇ)
(使い捨てにすんだ)
ロウの腹の奥で、熱が湧いた。
でも、燃やさない。
呼吸を一つ。
一回で落とす。
クラリスが最後に言った。
「通してください」
「通さないなら、あなたの署名と、あなたの責任を」
兵は唇を噛み、紙を引っ込めた。
「……通せ」
門が開く。
馬車が動き出す。
境界線を越える。
その瞬間、ロウは窓の外で、柱の影の白を見た。
白が、こちらを見ている。
目が、笑っていない。
ロウは視線を外した。
情報は、十分だ。
(次は)
(あいつが、動く)
馬車は国境の外へ出た。
空気が少し変わった。
クラリスが紙束を抱え直す。
「よく見ていましたね」
ロウはそっけなく言う。
「……別に」
レナートが淡々と言った。
「十分だ」
それだけで、ロウの喉が少しだけ詰まった。
褒められるのは、まだ慣れない。
ロウはため息をひとつ落として、窓に額を寄せた。
「……早く、終わらせようぜ」




