第37話 三日目、追放の鍵
三日目の朝は、空が薄かった。
雲が低く、光が平たい。
検疫線はいつもより静かで、静けさが逆に不穏だった。
クラリスは詰所の机で、最後の紙を揃えていた。
封蝋は乾いている。
写しは二部。
一つは王都へ。
一つは公爵家へ。
同時に出す。
時間差で物語を挟ませないために。
レナートは外で待っている。
医師の顔で。
淡々と。
でも、目だけは鋭い。
「来ます」
書記が小声で言った。
「……側近が、鑑定官と一緒に」
クラリスは頷く。
「予定通りです」
予定通り、という言葉が心を落ち着かせる。
相手の奇襲は怖い。
でも、相手が予定通り動くなら――こちらの手順も予定通り動く。
扉が開いた。
鑑定官オルテンシアが入る。
隣に王太子側の男。
前回より人数が多い。
兵が二人。
書類を抱えた役人が一人。
“舞台”を作り直すつもりだ。
オルテンシアが微笑んだ。
「三日目ですね」
「少年の“呪毒”は、昨夜……変化しました」
クラリスは首を傾げる。
「変化?」
「はい」
オルテンシアは白い布袋を机に置く。
「新しい証拠です」
「隔離小屋の床から採取した粉」
「呪毒反応が、より鮮明に」
クラリスは一切触れない。
ただ、視線で書記に合図する。
書記が板を構え、記録を始めた。
クラリスは淡々と言う。
「採取者は?」
「採取時刻は?」
「採取手順は?」
オルテンシアが微笑む。
「神殿の手順です」
クラリスは、同じ言葉を同じ温度で返した。
「具体的に」
王太子側の男が苛立ったように口を挟む。
「いつまで遊ぶつもりだ」
「隔離は延長する」
クラリスは男を見る。
「延長は条文に従います」
「根拠の提出が必要です」
男は紙を机に叩きつけた。
「これが根拠だ」
封蝋がある。
王家のものだ。
でも。
クラリスは一瞬で気づいた。
封蝋が新しい。
乾きが甘い。
急造だ。
「拝見します」
クラリスは紙を受け取り、読み、すぐに机に戻す。
「これは“延長命令”ですね」
男が勝ち誇る。
「そうだ」
クラリスは言った。
「責任者の署名がありません」
男の表情が僅かに崩れる。
「殿下の意向だ」
クラリスは頷く。
「なら、署名をお願いします」
男が噛みつく。
「公爵令嬢が、王太子殿下に署名を求めるのか」
クラリスは淡々と言った。
「隔離は権力です」
「権力は責任です」
「責任は署名です」
オルテンシアが柔らかく言う。
「署名など、形式でしょう」
クラリスは返す。
「形式が命を守ります」
「形式がなければ、次は誰でも隔離できます」
「――あなたでも」
空気が止まった。
男の眉が動く。
書記が板に書く手を止めそうになり、必死で続ける。
クラリスは机の端から別の紙を出した。
封蝋付き。
検疫線責任者の署名付き。
「こちらが三日前に交わした運用条項です」
「不一致の場合、隔離は最短三日」
「三日目の本日、追加根拠が提出されなければ解除」
オルテンシアが笑う。
「提出されるのです」
「この粉が――」
レナートが外から入ってきた。
淡々と、粉袋を見て言う。
「それは香料だ」
「神殿の祭具用配合に近い」
オルテンシアが肩をすくめた。
「医師は、神を知らない」
レナートは言う。
「医師は、死を知っている」
短い。
それだけで、場が静まる。
男が苛立ちを隠さずに言った。
「なら少年を王家で引き取る」
「王家の施設に移送しろ」
クラリスは、そこで初めて息を吐いた。
来た。
それが“本命”だ。
ロウを王家の管轄に引きずり込み、手の届く場所に置く。
隔離の名で。
保護の名で。
好きに加工するために。
クラリスはゆっくり言った。
「それはできません」
男が冷たく笑う。
「できない? 誰が決める」
クラリスは答える。
「私が決めます」
空気が少し揺れる。
王太子側の男が顔を歪める。
「公爵令嬢が、何を」
クラリスは、机の上の紙を整えた。
そして。
淡々と宣言した。
「――私は追放されます」
男が一瞬、言葉を失う。
オルテンシアの目が細くなる。
クラリスは続ける。
「この国の“感情の舞台”では、私が何を言っても燃える」
「なら、燃えにくい形で燃やします」
「追放は、私が口にします」
「あなた方の涙の燃料を、私が奪います」
男が苛立って言う。
「なら追放されろ」
クラリスは頷いた。
「追放されます」
「ただし、形はこちらで決める」
机の上に、新しい紙が置かれる。
封蝋はまだ押されていない。
空欄がある。
クラリスは言った。
「検疫線解除後、私は国外へ出ます」
「名目は“隔離の継続検査”」
「――あなた方が作った呪毒を、あなた方の規定で縛る」
男が眉を上げる。
「国外だと?」
クラリスは頷く。
「そうです」
「この国の神殿前で泣かれるより」
「境界の外で検査した方が、国民のためでしょう?」
皮肉ではない。
手続きとしての提案だ。
でも、内容は相手の喉元に刃を当てる。
オルテンシアが微笑んだ。
「国外へ出れば、戻れませんよ?」
クラリスは微笑まない。
「戻る戻らないは、条文で決めます」
「帰還条件を明文化します」
男が苛立つ。
「そんなもの、認めるか」
クラリスは静かに言った。
「認めないなら」
「あなた方は“呪毒”を理由に人を隔離し、国境の外へ出す」
「そして責任を取らない」
「――その記録を、王都と公爵家に同時に送ります」
書記が板を掲げる。
記録がある。
署名がない命令がある。
急造の封蝋がある。
矛盾がある。
燃えるのは、どちらか。
男の喉が鳴った。
オルテンシアの笑みが、ほんの僅かに硬くなる。
クラリスは畳みかけない。
畳みかけずに、ただ待つ。
相手が自分で転ぶのを待つ。
それが一番、確実だ。
しばらくして、男が言った。
「……検疫線責任者を呼べ」
クラリスが頷く。
「はい」
「署名が必要ですから」
*
白の小屋。
鍵が開く音がした。
ロウは立ち上がる。
足は痛い。
でも、目は冴えている。
扉の向こうに、光がある。
クラリスが立っていた。
紙束を抱えている。
レナートがその隣にいる。
淡々としている。
でも、目が鋭い。
クラリスが言った。
「解除です」
ロウが息を吐く。
(……終わった)
クラリスは続ける。
「ただし、次の戦いに移ります」
「国外へ出ます」
ロウが眉を上げる。
「……は?」
クラリスは淡々と言う。
「追放です」
「私が口にしました」
「だから、形はこちらで取ります」
ロウは舌打ちする。
「……クソ」
(また我慢かよ)
でも。
クラリスの目が、ぶれない。
レナートがロウを見る。
「耐えたな」
短い言葉。
それだけでロウの喉が詰まる。
ロウは顔を背けた。
「……別に」
クラリスが小さく言った。
「君が我慢してくれたから、ここまで来れました」
ロウは何も言えない。
その時、遠くで怒号が響いた。
兵が走る音。
また何かが起きている。
レナートの目が細くなる。
「……来る」
ロウが反射で身構える。
殴りたい。
今すぐ殴りたい。
でも、まだだ。
今は。
クラリスが主役だ。
クラリスが前へ出る。
紙を抱え直す。
「行きましょう」
「次は、国外です」
追放の鍵は、こちらが握った。
舞台は、次へ移る。
そして。
殴るのは――
もっと確実な瞬間に。




