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第36話 白の小屋、水面下


白の小屋は、静かだった。


静かすぎて、音が響く。


布が揺れる音。


風が柵を鳴らす音。


遠くで、兵の鎧が擦れる音。


ロウは小屋の中で、壁に背を預けて座っていた。


床は冷たい。


敷かれた毛布は薄く、体温を奪う。


(……三日)


(三日だけだ)


自分に言い聞かせる。


暴れるな。


噛みつくな。


今は我慢だ。


拳を握る。


力はある。


逃げようと思えば、たぶん――できる。


でも、逃げた瞬間、全部が壊れる。


クラリスが積み上げているもの。


レナートが押さえている線。


それを、自分が踏み潰す。


(それだけは、ねぇ)


ロウは目を閉じた。


呼吸を数える。


昔、訓練でやらされたやつだ。


殴られても、蹴られても、数を数えろ。


そうすれば、頭は生き残る。


外で、足音が止まる。


兵が交代した気配。


規則正しい。


――つまり、記録されている。


(……あの人たち、ちゃんとやってる)


それが分かるだけで、少し楽になる。



一方、白の小屋の外。


検疫線の詰所では、紙が音を立てていた。


クラリスは机に向かい、淡々と文字を書いている。


封蝋。


署名。


日付。


時間。


「これで、昨日分の記録は揃いました」


書記が言う。


声は少し落ち着いてきた。


クラリスは頷く。


「ありがとうございます」


「この写しは、王都と公爵家、両方に送ります」


「“同時”に」


書記が息を飲む。


「……同時、ですか」


「ええ」


クラリスは顔を上げない。


「時間差があると、“物語”を挟まれます」


「同時なら、挟む余地がない」


紙の端を揃え、次を取る。


作業は速い。


迷いがない。


レナートは少し離れた場所で、隔離記録を見ていた。


体温。


脈拍。


食事量。


睡眠。


どれも、淡々と書かれている。


「食事、減らされていない」


「水も問題ない」


レナートが言う。


クラリスが即座に答える。


「減らしたら、減らした側の責任です」


「条文に書いてあります」


レナートが短く頷く。


「……よく押さえている」


クラリスはペンを止めずに言う。


「相手は感情で殴る」


「こちらは、手順で縛る」


「殴り返したら、同じ舞台に立つだけです」


レナートは一瞬、視線を上げた。


「君は……慣れているな」


クラリスは小さく笑う。


「ええ」


「炎上処理と、理不尽な上司と、責任の押し付け合いには」


「嫌というほど」


レナートはそれ以上聞かない。


聞かないのが、この人の優しさだ。


詰所の外が、ざわつく。


神殿側の使いが来た。


鑑定官オルテンシアの部下だ。


布袋を抱えている。


「追加の鑑定資料です」


声が大きい。


見せたい。


聞かせたい。


クラリスは顔を上げる。


「受領します」


「記録係を」


書記がすぐに前へ出る。


布袋の中身が机に置かれる。


香の匂い。


粉末。


符の欠片。


“それっぽい”もの。


オルテンシアの部下が言う。


「呪毒反応を示す物です」


クラリスは一つも触らない。


ただ、尋ねる。


「採取場所は?」


「日時は?」


「誰が、どの手順で?」


部下が詰まる。


「……神殿の手順です」


クラリスは淡々と言う。


「具体的に」


「記録に残せないものは、証拠ではありません」


レナートが一歩前に出る。


「医師として確認する」


粉末に触れ、匂いを嗅ぐ。


表情は変わらない。


「ただの混合香料だ」


「神殿の祭具に使われる配合に近い」


部下が声を荒げる。


「侮辱だ!」


レナートは返す。


「医学的所見だ」


短い。


重い。


クラリスが続ける。


「この資料は、鑑定の補助にはなりません」


「記録に残します」


書記が板に書く。


オルテンシアの部下は歯噛みする。


「殿下に報告する!」


クラリスは頷く。


「どうぞ」


「こちらも、同じ内容を報告します」


部下は去る。


足音が荒い。


クラリスはペンを置き、息を吐いた。


ほんの一瞬。


疲労が、肩に出る。


レナートが言う。


「無理はするな」


クラリスは首を振る。


「今が山です」


「三日目まで、押し切ります」


レナートは何も言わず、書類を整える。


彼の指は、医師の指だ。


迷いがない。


クラリスは、その横顔を一瞬だけ見た。


(……この人も、気づいてる)


(ロウがどれだけ耐えてるか)


(だから、動きを止めない)


言葉にしない。


それが、今は一番いい。



夜。


白の小屋。


灯りが落ちる。


ロウは横になり、天井を見ていた。


眠れない。


傷が疼く。


腹が鳴る。


でも、耐える。


外で、足音が止まった。


扉の外から、低い声。


「……ロウ」


レナートだ。


ロウは起き上がり、扉に近づく。


開かない。


鍵がある。


でも、声は近い。


「今夜は、異常なしで記録された」


ロウは笑う。


「そりゃどうも」


声が少し、いつもの調子に戻る。


レナートは続ける。


「明日、もう一度、資料が来る」


「捏造だ」


ロウは舌打ちする。


「分かってる」


「だから――」


言いかけて、止める。


消えたい、なんて言葉は飲み込む。


レナートが、先に言った。


「逃げるな」


短い。


でも、強い。


ロウは額を扉に預けた。


「……分かってる」


「俺、我慢する」


少し間があって、レナートの声。


「それでいい」


「君は、十分やっている」


ロウの喉が、詰まる。


褒められるのは、慣れていない。


「……先生」


「ん」


「……医者、だけしてろよ」


レナートは、微かに息を吐いた。


「それは無理だ」


「君がいるからな」


ロウは何も言えなくなる。


しばらくして、足音が遠ざかる。


ロウは壁に背を預け、座り込んだ。


(……くそ)


(ちゃんと、やってるじゃねぇか)


外では、紙が動いている。


言葉が、記録されている。


条文が、光を集めている。


ロウは目を閉じた。


(三日目だ)


(三日目で、決めろ)


白の小屋は、まだ檻だ。


でも、水面下では――


確実に、形勢が動いている。


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