第35話 呪毒の舞台、条文の光
検疫線の内側は、寒かった。
空気が冷たいというより――視線が冷たい。
白い柵の内側に、白い布が張られ、香が焚かれている。
神殿の香だ。
祈りの匂いで、恐怖を固める匂い。
鑑定官オルテンシアは、わざとゆっくり歩いた。
歩くだけで周囲の兵が道を空ける。
権威の歩幅。
それを見せたいのだ。
「まず、少年」
オルテンシアが、ロウに指を向ける。
ロウが一歩踏み出しかける。
その瞬間、クラリスが手を上げた。
「手順を確認します」
声は柔らかい。
でも、芯が硬い。
「検疫線責任者の署名と封蝋は確認しました」
「次に、鑑定官の権限を確認します」
オルテンシアが微笑む。
「必要ですか?」
クラリスは微笑まない。
「必要です」
「王命の運用は、権限と責任がセットです」
「どなたが、どの範囲まで、何を根拠に“呪毒”を判断しますか」
側近の男が低く笑った。
「公爵令嬢が、検疫線で何を――」
クラリスはその男を見ない。
見ないまま、オルテンシアだけを見る。
相手の“舞台”に乗らない視線だ。
オルテンシアは笑みを崩さない。
「神殿鑑定官は、神殿の規律により――」
クラリスが遮る。
「規律は結構です」
「ここは王命の検疫線です」
「王命に基づく隔離である以上、判断の形式は王命の範囲に従います」
オルテンシアの笑みが、ほんの僅かに固まった。
クラリスは紙を一枚差し出す。
「昨夜、書き直された命令書の写しです」
「“鑑定は診断ではない”」
「“医療裁量は同行医師が持つ”」
「“鑑定結果は記録し、署名付きで保管する”】【
言葉を並べるほど、舞台の照明が強くなる。
恐怖の舞台が、事務の机に変わっていく。
ロウは歯を食いしばった。
(言い返してぇ)
(ぶん殴ってぇ)
でも、クラリスが“言葉の順番”を持っている。
ロウは飲み込む。
我慢だ。
クラリスが言った。
「始めてください」
「ただし」
「鑑定の前に、記録係を決めます」
書記が震えながら板を構える。
クラリスは淡々と言う。
「記録は一字一句、残します」
「途中で“都合のいい物語”に変えられると困るので」
側近の男の口元が歪んだ。
「物語、だと?」
クラリスが初めて、その男を見る。
目が冷たい。
「ええ」
「涙で燃える物語です」
「そして、燃えた後に“正義”を名乗る物語」
一拍。
周囲の兵の視線が揺れた。
神殿の香が、少しだけ薄くなる。
クラリスは続ける。
「燃える前に、手順で消します」
オルテンシアが手を広げた。
「素晴らしい」
「では、鑑定を」
白い布が広げられる。
布の向こうに、見物人がいる。
兵だけではない。
検疫線の職員。
行商人。
祈りに来た者。
“感情の舞台”を作っている。
クラリスは一歩前に出て、布の前に立った。
「見物をやめてください」
声は大きくない。
だが、通る。
「隔離は、見世物ではありません」
「鑑定は、手続きです」
側近の男が苛立って言った。
「誰の命令だ」
クラリスは返す。
「王命の運用責任者としての命令です」
「署名がある以上、ここでは私たちも“当事者”です」
そして、淡々と畳みかける。
「布を下げるか」
「下げないなら、見物全員を名簿に記録します」
「後日、情報漏洩の責任を問います」
空気が凍った。
布が、ゆっくり下がる。
見物人が散る。
神殿の“舞台”が崩れる。
ロウは内心で舌打ちした。
(……強ぇ)
(この人、紙しか持ってねぇのに)
オルテンシアは笑みを崩さないまま、ロウに近づく。
「少年、手を」
ロウが手を差し出す。
指が震えそうになるのを、腹で押さえた。
オルテンシアが指先に触れる。
冷たい。
次の瞬間、オルテンシアはわざとらしく目を見開いた。
「……ああ」
「やはり」
周囲がざわめく。
ロウの背が熱くなる。
(演技くせぇ)
クラリスが即座に言う。
「反応の根拠は?」
オルテンシアが囁くように言う。
「呪毒は、触れれば分かります」
クラリスは笑わない。
「“分かります”では記録になりません」
「どの症状」
「どの所見」
「どの基準」
「そして、鑑定官の反応は“再現可能”ですか」
オルテンシアが一瞬黙った。
その隙に、レナートが淡々と前へ出る。
「脈拍」
「体温」
「瞳孔反応」
「皮膚の発赤」
「呼吸音」
短く、淡々と検査する。
ロウが顔をしかめる。
「……くすぐってぇ」
レナートが小さく言う。
「黙れ」
ロウが噛みつきかけて、飲み込む。
我慢だ。
クラリスが言った。
「医師所見を記録して」
書記が必死に板に書く。
レナートが言う。
「感染所見なし」
「毒性反応なし」
「呪毒という言葉は医学的定義がない」
オルテンシアが微笑む。
「医師は神を信じないのですか?」
ここで感情の舞台に戻そうとする。
クラリスが即座に切る。
「信仰は自由です」
「しかし隔離は王命です」
「王命は手続きです」
「“信じるかどうか”で人を閉じ込めるなら」
「それは検疫ではなく、宗教裁判です」
空気が止まった。
側近の男が前へ出る。
「王太子殿下の名を――」
クラリスは、それを待っていたように言う。
「王太子殿下の名を使うなら」
「なおさら、書面で」
「殿下の意向が正式なら、署名をお願いします」
「“誰が”命じたのかを」
側近が詰まる。
署名は出せない。
出した瞬間、責任が生まれる。
クラリスは畳みかける。
「署名がない命令は“噂”です」
「噂で隔離はできません」
ロウは思った。
(……怖)
(この人、敵より淡々としてる)
(だから余計に怖い)
オルテンシアが声色を変えた。
「では、少年が“媒介”でない証明を」
クラリスが一歩前に出る。
「逆です」
「隔離する側が、根拠を示してください」
「隔離は権力です」
「権力は根拠が必要です」
そして、クラリスは紙を一枚出した。
封蝋付き。
検疫線責任者の署名。
今朝、門で取ったものだ。
「本日付の運用条項」
「鑑定結果は、医師所見と突き合わせる」
「不一致の場合、隔離期間は最短三日」
「三日で追加根拠が出なければ、解除」
オルテンシアの笑みが、初めて揺れた。
(そんな条項があったのか)という目。
クラリスは淡々と言った。
「あなたが署名しました」
「覚えていないなら、記録を見てください」
書記が板を掲げる。
署名も封蝋も写してある。
逃げ道が消えた。
側近の男が低く唸る。
「……殿下に報告する」
クラリスが頷く。
「どうぞ」
「ただし、その報告も記録に残します」
オルテンシアは、笑みを戻した。
戻したけれど、今度は薄い。
「素晴らしい」
「では、三日間の隔離としましょう」
クラリスが即座に言う。
「隔離場所は?」
オルテンシアが指をさす。
「白の小屋です」
クラリスは頷く。
「小屋の鍵の管理者は?」
「食事の搬入者は?」
「見張りの交代表は?」
質問は続く。
相手が怯む種類の質問だ。
感情ではなく、事務。
物語ではなく、手順。
ロウは腹の奥で笑いそうになる。
(これが戦いかよ)
(殴り合いより、えげつねぇ)
レナートが淡々と付け足す。
「隔離中の医療介入の権限は私にある」
オルテンシアが口を開きかける。
レナートは表情を変えずに言った。
「署名がある」
一言で終わる。
オルテンシアが黙る。
ロウは思う。
(また顔で黙らせてる)
(いや、顔じゃない)
(顔もあるけど)
(たぶん、こいつ)
(本気で“医者”なんだ)
クラリスが最後に言った。
「三日です」
「三日で根拠が出ないなら解除」
「出るなら、次の条文に進む」
「……私たちは、その準備をして待ちます」
オルテンシアが微笑んだ。
「待てるなら、どうぞ」
でも、その笑みは少し硬い。
クラリスはロウに視線を向ける。
「我慢できますか」
ロウは唇を噛む。
「……できる」
言い切るのに、喉が痛い。
クラリスは頷く。
「十分です」
そして小さく言った。
「君は一人じゃない」
ロウは目を逸らす。
見られると、変なところが熱くなる。
(……くそ)
(三日だ)
(三日くらい、耐えろ)
白の小屋へ歩かされる。
冷たい風。
白い柵。
白い布。
呪毒の舞台は、まだ残っている。
でも、その舞台に当てる光は、もう条文の光だ。
クラリスは紙束を抱え直した。
「――次に備えます」
その声は、宣言だった。
戦う準備の声だった。
ロウはその背を見て、思った。
(主役だな)
(俺は……我慢役か)
それでも。
この戦い方なら。
俺は、耐えられる。




