第32話 呪毒と検疫
診療所の戸口に、朝の光が差し込んだ。
いつもなら、薬草の匂いと、パンを焼く匂いが混ざる時間だ。
けれど今日は違った。
外が静かすぎる。
人の気配が、薄い。
その静けさを割ったのは、硬い靴音だった。
二人。
いや、三人。
戸が開く前から分かる。
足音が、仕事じゃなく“命令”の歩幅だった。
扉が開く。
入ってきたのは、王家の紋章を胸に付けた男だった。
背後には、神殿の白衣が一人。
もう一人は、書記らしい若い男で、手に巻物と板を抱えている。
レナートは手を止めなかった。
傷口に布を当てながら、淡々と告げる。
「診療中だ」
「順番を待て」
王家の男は、待たなかった。
「王命により監察に来た」
声が、冷たい。
「この診療所で起きた“毒”の件だ」
毒。
その言葉が出た瞬間、診療所の空気がひやりとした。
ロウが反射で立ち上がりかけて、足の痛みに眉を寄せる。
(……またかよ)
レナートが視線だけで止める。
ロウは舌打ちを飲み込んだ。
王家の男の隣の、神殿の白衣が一歩前に出る。
大げさに胸の前で手を組み、悲しそうに首を振った。
「毒ではありません」
「……呪毒です」
その単語が落ちた瞬間、診療所の温度が変わった。
患者の一人が息を呑む。
別の誰かが、祈るように手を握る。
ロウは笑いそうになった。
(出たよ)
神殿の得意技。
言葉ひとつで、日常を“罪”に変える。
レナートは顔色ひとつ変えない。
布を替えながら言う。
「呪毒の定義を言え」
神殿の白衣は、答えない。
答えない代わりに、悲劇の表情を作る。
「感染の恐れがあります」
「国民を守らねばなりません」
ロウの視界の端で、患者が一歩引いた。
人の足が、わずかに扉へ向く。
恐怖の動線。
ロウは知っている。
恐怖は、人を簡単に裏切らせる。
王家の男が巻物を開いた。
書記が板に固定し、読み上げる準備をする。
「王命」
「当該診療所を監察下に置く」
「当該事件の関係者、及び被疑感染者を――」
その言葉の途中で、レナートが言った。
「止めろ」
声は低い。
医師の声だ。
いつもの淡々とした調子のまま、刃だけが乗っている。
王家の男は眉を上げる。
「従え。王命だ」
レナートは包帯を結び、患者に短く告げた。
「家へ戻れ」
「今日は、ここに来るな」
患者が戸惑う。
恐怖に揺れる。
レナートは視線で押した。
「帰れ」
患者が出て行く。
診療所が、急に広くなった。
ロウは息を吐く。
(……クソ、上手い)
人払い。
まず“舞台”を作らせない。
レナートのやり方は、神殿と逆だ。
王家の男が読み上げる。
「――被疑感染者を隔離する」
「隔離先は、国境の検疫線」
「期限は未定」
ロウの喉が鳴った。
検疫線。
つまり、国外と同じだ。
境界の向こう。
戻る保証がない。
神殿の白衣が、そこでわざとらしく目を伏せた。
「お可哀想に……」
「けれど、国のためです」
ロウは一歩踏み出す。
踏み出して、痛みに顔が歪む。
それでも言う。
「……誰が感染者だよ」
王家の男が、冷たく視線を向けた。
「少年」
「君だ」
ロウの腹の奥が、冷えた。
(俺かよ)
赤でも黒でも関係ない。
結局、使える標的は俺。
ロウは、無意識に首元の革紐を握る。
証拠。
居場所。
――狙いはそこじゃない。
狙いは、ここにいる全員の“恐怖”だ。
神殿の白衣が、言葉を足す。
「少年が呪毒を媒介している可能性があります」
「彼に近い者も……安全とは言えません」
つまり、レナートとクラリスにも刃が向く。
ロウは、歯を食いしばった。
(俺が消えりゃ……)
その思考が、頭をよぎった瞬間。
レナートが、ロウの手首を掴んだ。
強い。
痛いほど強い。
「黙れ」
短い。
ロウは睨み返す。
「離せよ」
「俺が行きゃ――」
言い終える前に、レナートが口を開いた。
「ロウ」
呼び方は普段通りだ。
普段通りのはずなのに、声が違う。
深い。
「その話は、後だ」
ロウは噛みつきそうになって、止まる。
止まってしまう。
(……先生、今)
レナートは王家の男へ向き直った。
「隔離の根拠は?」
「誰が診断した?」
王家の男は動じない。
「神殿の鑑定だ」
レナートは即座に返す。
「鑑定は診断ではない」
「臨床所見がない」
「検疫規定に従うなら、感染経路と症状を示せ」
淡々とした声。
でも、圧がある。
神殿の白衣が口を挟む。
「医師殿、貴方は神殿に逆らうおつもりですか?」
レナートは一拍置いた。
そして、静かに言う。
「逆らってはいない」
「守るべき手順を守れと言っている」
王家の男が、紙を一枚追加で差し出した。
「ならば、同行しろ」
「検疫線で検証する」
「医師が必要だ」
レナートの眉が、ほんの僅かに動く。
罠。
医師として断れば、“非協力”で診療所を潰される。
受ければ、ロウを連れて行かれる。
ロウは息を吐く。
(……詰んでねぇ)
詰んでない。
詰んでないけど、嫌なやり方だ。
その時、奥の部屋から足音がした。
クラリスが現れる。
白い手袋。
背筋の伸びた姿。
ここが庶民の診療所でも、その立ち方は貴族の令嬢だった。
クラリスは状況を一瞬で把握する。
王家の男。
神殿の白衣。
巻物。
そして、“隔離”の言葉。
「なるほど」
クラリスは淡々と言った。
「呪毒、検疫、隔離」
「国民の安全、ですね」
神殿の白衣が、勝ち誇ったように頷く。
「その通りです」
クラリスは笑わない。
代わりに、手元の紙束を取り出した。
「では、こちらも手続きでお返しします」
王家の男が眉を上げる。
「何だ」
「証拠です」
クラリスの声は乾いている。
「毒混入事件の記録」
「症状の記録」
「診療所の出入りの記録」
「そして――」
クラリスは一枚を裏返して見せた。
「神殿側の鑑定文書の矛盾点」
神殿の白衣の顔が、わずかに引きつる。
クラリスは続ける。
「検疫は構いません」
「ただし、条文に従いましょう」
「隔離対象、同行者、監察権限、情報公開――」
「全て明文化して」
「署名と封蝋を付けてください」
王家の男が、黙る。
書記が一瞬、手を止める。
クラリスは畳みかけた。
「曖昧な“呪毒”で人を連れ去るなら」
「その責任も、同じく明文化を」
神殿の白衣が声を荒げかける。
「貴女は――!」
レナートが、口を挟んだ。
「必要な書類は?」
「検疫線の医療権限は?」
「患者の扱いは?」
王家の男は、冷たく言った。
「準備する」
「だが決定は覆らない」
「少年は移送する」
ロウが息を吸う。
腹が熱くなる。
言い返したい。
ぶん殴りたい。
でも、ここで殴ったら“物語”を与える。
涙の燃料になる。
クラリスが言った。
「分かりました」
「なら、こちらも準備します」
「――私が同行します」
ロウが目を見開く。
「は?」
クラリスはロウを見た。
目が、鋭い。
「君を一人にしない」
「これは“隔離”じゃない」
「こちらが、使う“移動”です」
ロウは言い返しかけて、喉が詰まる。
(……この人も、腹括ってんのかよ)
レナートが、短く頷いた。
「私も同行する」
王家の男は淡々と言った。
「よろしい」
「では、明朝出発だ」
神殿の白衣が、最後に囁くように言った。
「どうか……国のために」
その“国”が誰のことか、ロウは分かっている。
自分たちの国じゃない。
あいつらの国だ。
王家の男たちが去る。
戸が閉まる。
診療所に沈黙が落ちた。
ロウが低く吐く。
「……クソが」
レナートはロウの顔を見た。
いつもの淡々とした顔。
でも目が、少しだけ鋭い。
「逃げるな」
ロウが反射で噛みつく。
「逃げねぇよ」
「ただ……俺が行けば――」
レナートの声が落ちた。
普段より低い。
「ローワン」
その名で呼ばれた瞬間、ロウの背が硬直する。
レナートは、短く言い切った。
「勝手に決めるな」
ロウは言葉を失う。
クラリスが、紙を机に置いた。
「決まりですね」
「検疫線へ行きます」
「向こうが“呪毒”を燃やすなら――」
「こちらは、条文で消す」
外の光が、少しだけ弱くなった。
朝が、もう終わりかけていた。
明朝。
ロウは国を出る。
追放じゃない。
隔離だ。
罰の顔をした、移動だ。
でも――
今度は一人じゃない。




