第31話 拾われた日
⸻
ロウが「生きていた頃」の話は、遠い。
いまの王都とは違う。
もっと遠い場所。
地図の端に、かろうじて名前が載るかどうかの村だった。
父はよく笑う人だった。
母は、静かに強い人だった。
ロウは――普通の子どもだった。
朝は冷たい水で顔を洗い、昼は泥だらけになって走り、夜は母の作る薄いスープで腹を満たす。
貧しくても、家は家だった。
ある日、村の外へ出かけた。
買い出しだったか、親戚だったか。
理由はもう、思い出せない。
ただ帰り道だけは、妙に鮮明に残っている。
荷車のきしむ音。
馬の鼻息。
乾いた風。
そして――笑い声。
道の脇から、男たちが現れた。
盗賊だった。
父が前に出た。
母がロウの肩を掴み、背に回した。
「見るな」
その声が、震えていなかったことだけは覚えている。
父は殺された。
あまりにも、あっさりと。
血の匂いが土と混ざった。
母は叫ばなかった。
叫ぶ暇すらなく、すぐに引き離された。
ロウの腕が引かれ、足が宙に浮く。
母の手が、一瞬だけこちらに伸びた。
触れそうで、触れなかった。
それきりだ。
母がどこへ行ったのか。
生きているのか。
死んだのか。
ロウは知らない。
知る術もなかった。
五歳か六歳。
その頃から、ロウは“物”になった。
人買いの荷台。
名前のない寝床。
汚れた水。
殴られる音。
泣き止ませるための音。
その先にあったのは、裏の世界だった。
一箇所に留まらない組織。
点のように散り、必要な時だけ線になる。
捕まらないように。
目立たないように。
ロウは訓練された。
腕の振り方。
足の運び。
息の殺し方。
嘘の吐き方。
痛みの隠し方。
ロウは頭が良かった。
だから覚えた。
覚えたから、生き残った。
けれど、根っこは変わらなかった。
「やっていいこと」と「やっちゃいけないこと」。
その線だけは、どうしても折れなかった。
十二歳になった。
初めて、一人で“仕事”をさせられた。
子どもだから、使い捨てにちょうどいい。
そういう目で見られているのが、分かった。
標的は旅の商人だった。
簡単だと言われた。
ロウは近づいた。
――そこで、手が止まった。
相手は父親だった。
背に子どもを乗せ、必死に笑っていた。
その瞬間、ロウの中の一本が動いた。
(……殺せねぇ)
躊躇した。
その瞬間、世界が反転した。
護衛は薄くなかった。
ロウが、餌だった。
腹に痛みが走る。
肩が裂ける。
脚が崩れる。
血が、温かい。
逃げようとして、足が動かなかった。
(死ぬのかよ)
怖くはなかった。
ただ、何も残らないのが嫌だった。
次に聞こえたのは、声だった。
落ち着いた声。
感情の薄い声。
「……生きてる」
「動くな」
「動けば、もっと出る」
誰かがロウの身体を抱え上げた。
軽い。
軽すぎる。
(……クソ)
「……誰だよ」
掠れた声が漏れる。
強がりでしか、喋れなかった。
「医師だ」
短い返答。
抱え方は乱暴じゃない。
置き方も、雑じゃない。
傷を見て、薬を当てる。
淡々としているのに、視線が細かい。
呼吸。
瞳孔。
血の色。
全部、見られている。
「……子どもか」
「うるせぇ」
「子ども扱いすんな……っ」
腹が痛んで、言葉が詰まる。
それでも目は逸らさない。
「黙れ」
「喋ると、血が散る」
その声に、妙な圧があった。
ロウは舌打ちを飲み込む。
月明かりの下で、その男を見た。
金髪。
白い肌。
疲れた目。
綺麗なのに、不気味さがある。
本を読みすぎた人間の目だ。
背は高く、猫背気味。
姿勢の癖が、貴族のものだった。
(……貴族サマかよ)
ロウの髪は黒かった。
いや、黒く“染めて”あった。
汗と血で濡れた髪から、微かに染料の匂いがする。
色は均一じゃない。
襟足や耳の後ろに、暗い赤が滲んでいる。
レナートの指先が、ふと止まった。
「染めてるな」
責める響きはない。
医師の声だった。
「……うるせぇ」
「聞いてねぇ」
「汗で落ちる」
「傷に入ると荒れる」
「治るまで濡らすな」
注意は、それだけだった。
色の理由も、過去も、聞かれない。
ロウは内心で息を吐いた。
「……なんで拾うんだよ」
「得あんのか、これ」
「得はない」
「目の前で死なせる方が嫌だ」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥が少し痛んだ。
「名前は」
ロウは目を伏せる。
「……ねぇよ」
「捨ててきた」
レナートは追わなかった。
革紐と、小さな金属の札を取り出す。
「付けろ」
「……鎖か?」
「鎖じゃない」
「身元証だ」
「俺みてぇなのに?」
「……バカじゃねぇの」
「倒れていた子どもを拾った」
「医師が治療した」
「その証拠がいる」
理屈だった。
でも、裏の世界の言い逃れを潰す理屈だ。
(……頭いいじゃん)
革紐が、首元にかかる。
冷たい。
でも、嫌じゃなかった。
「……俺、邪魔だろ」
「こんなガキ拾って」
「治療が増えただけだ」
即答。
そして、声が一段低くなる。
「ローワン」
その名で呼ばれた瞬間、背が強張った。
「生きたいなら、まず生き残れ」
数日後。
ロウは起き上がれるようになった。
体は痛い。
でも、頭は動く。
診療所の隅で、レナートの仕事を見る。
怒鳴られ、泣かれ、頼られても、淡々と縫う。
金を払えない患者にも、同じ手で。
(……変なやつ)
ある夜、ロウはぽつりと言ってしまった。
「先生が医者やってるとこ……」
「……嫌いじゃねぇ」
「今のナシ」
「忘れろ」
レナートは、ほんの一瞬だけ手を止めただけだった。
何も言わない。
その沈黙が、嫌じゃなかった。
だからロウは思う。
(俺がいなくなりゃ)
(先生は、医者だけやってられる)
その癖は、今も残っている。
けれど、首元には革紐がある。
証拠。
居場所。
そして――
この人が、取り戻しに来た理由。
ロウは目を閉じた。
眠れる夜だった。
⸻
ローワンは、赤髪ヤンチャ少年。
闇組織に買われて育てられたが、性格が暗殺向きじゃないので使い捨てされた。
当時は赤髪を隠すよう命令されて、レナートに拾われた時は黒染めしていた。




