表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/69

第30話 縫う。話はそのあとだ


施療所に戻る頃には、空が少しだけ薄くなっていた。


夜が終わりかける時間。


人がいちばん、油断する時間。


レナートは油断しない。


油断できない。


馬車の中でロウが一度だけ目を閉じ、すぐに開いたのを見て、レナートは理解した。


――眠れない。


痛みのせいじゃない。


罪悪感のせいだ。


「歩けるか」


レナートが聞くと、ロウは頷いた。


頷き方が、悔しそうだった。


悔しさは、生きてる証拠だ。


死にかけたやつは、悔しがらない。


施療所の裏口を開ける。


灯りが一つ、廊下の奥で揺れていた。


待っていたのは、スタッフのひとり。


目が赤い。


泣いた目だ。


「先生……」


スタッフが言いかけて、ロウを見て息を呑む。


ロウが視線を逸らす。


自分が迷惑をかけたと思ってる顔。


レナートは短く言った。


「診療は続ける」


「今日も、いつも通りだ」


それが、どれほど難しい宣言か。


スタッフは知っている。


でも、だからこそ頷く。


「はい」


レナートはロウの肩に手を置いた。


「中」


ロウは黙ってついてくる。


診療室の奥。


いつもの机。


いつもの薬棚。


いつもの匂い。


血の匂いと、薬草の匂いが混ざる場所。


ロウはそこに入った瞬間、ほんのわずかに表情を緩めた。


安心したのだ。


この場所がまだ壊れていないことに。


それが、また罪悪感を呼ぶ。


ロウの表情が、すぐに固くなる。


レナートは椅子を引き、短く命じた。


「座れ」


ロウが椅子に腰を下ろす。


息を吐く。


吐き方が浅い。


レナートは手を洗う。


水の音。


石鹸の音。


白布で拭く音。


その一つ一つが、ロウの呼吸を少しずつ整えていく。


ロウは言わない。


言わないが、見ている。


レナートが医師をやる姿を。


好きだと言った姿を。


レナートは器具を並べた。


針。


糸。


消毒。


布。


「痛むか」


「……痛む」


「当たり前だ」


レナートの声は淡々としている。


淡々としているから、ロウは耐えられる。


もし優しい声だったら、ロウは崩れる。


レナートは傷を確認した。


縄の擦れ。


打撲。


そして、矢の毒の匂い。


矢は当たっていない。


だが倉庫に漂った甘い匂いが気になる。


「めまい」


「……少し」


「吐き気」


「ない」


「なら、縫う」


ロウが反射的に言う。


「……ごめん」


レナートの手が止まった。


止まったのは一瞬。


その一瞬が重い。


「謝るな」


レナートはそう言って、針を持つ。


「謝る暇があったら、息を合わせろ」


ロウは口を噤んだ。


噤んだまま、レナートの手元を見る。


医師の手。


震えない手。


ロウは耐えながら、ぽつりと言った。


「……先生」


「なんだ」


「俺がいなきゃ、こんなことにならなかった」


来た。


一番言わせたくない言葉。


レナートは針を進める。


痛みが走り、ロウの眉が動く。


でもロウは声を出さない。


強い。


強いから、余計に厄介だ。


レナートは低く言った。


「それは違う」


「神殿が混ぜた」


「神殿が攫った」


「お前が悪い話じゃない」


ロウは歯を食いしばる。


「でも……先生の……」


レナートの声が少しだけ低くなる。


「俺の何だ」


ロウが言葉を探す。


探して、見つけられない。


見つけられないから、ロウは本音に触れる。


「先生が……医者やってるとこ」


言いかけて、ロウは止めた。


止めたのに、レナートの手がまた一瞬だけ止まる。


ロウは目を逸らした。


悔しそうに。


恥ずかしそうに。


「……好きなんだ」


言ってしまったみたいに。


レナートは返さない。


返したら、ロウが逃げる。


逃げる口実を与える。


だから返さない。


代わりに、糸を結ぶ。


結び終え、布で拭く。


「終わり」


レナートが言うと、ロウの肩から力が抜けた。


抜けた瞬間、ロウの目が揺れる。


泣きそうな揺れじゃない。


消えそうな揺れだ。


また“消える”を選びそうな揺れ。


レナートはロウの手首を軽く押さえた。


医療行為の延長みたいに。


でもロウは分かる。


これは逃がさない手だ。


ロウが小さく笑う。


「……俺、逃げねえって」


レナートの声が冷たくなる。


「嘘をつくな」


ロウの笑みが消える。


レナートはロウの胸元に視線を落とした。


革紐がない。


身元証がない。


返したのだから当たり前だ。


当たり前なのに、腹が立つ。


レナートは低く言った。


「約束しろ」


ロウの喉が鳴る。


「……何を」


「消えるな」


ロウの目が揺れる。


揺れて、強がろうとする。


「……先生のために」


「先生のために、俺が——」


レナートが遮った。


声が硬い。


「俺のために決めるな」


ロウが息を呑む。


レナートは続ける。


「お前のことは、お前が決めろ」


「だが、勝手に消えるな」


「消えるなら——」


言いかけた瞬間、レナートは止まった。


止まった理由は簡単だ。


続きを言ったら、それは“縛り”になる。


縛りは、ロウにとって一番怖いものだ。


使い捨てだった子は、縛られると逃げる。


レナートは医師だ。


逃げさせないために、縛る言葉は言えない。


だから止めた。


止めた沈黙が、部屋に落ちる。


ロウはその沈黙を、受け取ってしまう。


「……先生」


ロウが小さく言う。


「俺、迷惑だよな」


レナートの声が、さらに低くなる。


怒りが混ざる。


「迷惑なら」


レナートは言いかけて、また止まった。


言いかけた言葉は、“追い出す”言葉じゃない。


“ここにいろ”という言葉だ。


でも“ここにいろ”は、縛りに聞こえる。


レナートは一呼吸置き、医師として言い直した。


「迷惑なら、治す」


「治して、歩かせる」


「それだけだ」


ロウが笑う。


弱い笑い。


「……それ、先生らしい」


レナートは立ち上がり、外套を椅子にかけた。


そして机の引き出しを開ける。


中には新しい革紐と、小さな金属プレート。


簡易の身元証。


予備。


レナートはそれをロウの前に置いた。


「付けろ」


ロウが目を見開く。


「……また?」


レナートは淡々と言った。


「お前が返したからな」


「返されたら、作る」


ロウが唇を噛む。


「……先生、貴族だろ」


「こんな……」


レナートは目を伏せずに言う。


「貴族だ」


「だから守る」


「医師だ」


「だから治す」


「両方だ」


ロウの手が震えそうになる。


でも震えない。


ロウは震えないふりが得意だ。


レナートはロウの前にしゃがみ、革紐を手に取った。


ロウの首元へ回す。


指先が一瞬だけ止まる。


止まったのは、触れてしまうからだ。


それでも止めない。


レナートは結ぶ。


結んで、短く言った。


「これがある限り」


「お前は、ここに属してる」


ロウが息を呑む。


縛りだ。


でもこれは鎖じゃない。


身元証だ。


証拠だ。


ロウが小さく言う。


「……約束、できねえ」


レナートの目が細くなる。


「できない?」


ロウは視線を逸らした。


「俺は……先生の邪魔したくない」


来た。


またそれだ。


レナートは息を吐き、言葉を選ぶ。


縛らずに、逃がさずに、守る言葉。


「なら、こうしろ」


レナートは低く言った。


「消えたくなったら、先に言え」


ロウが顔を上げる。


「……先に?」


「先に」


「俺が判断する」


ロウが苦い顔をする。


「先生が?」


レナートの声が硬い。


「医師が、患者を勝手に放り出すか?」


ロウは黙る。


黙って、唇を噛む。


そして、ほんの少しだけ頷いた。


約束の未遂。


完全には取れない。


でも“逃げ道”は一つ潰せた。


ロウが小さく言う。


「……わかった」


レナートは立ち上がり、布を捨て、手を洗う。


いつもの音。


いつもの手順。


いつもの医師の姿。


ロウはそれを見ながら、ぽつりと言った。


「……やっぱ好きだわ」


レナートの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


止まったが、振り返らない。


振り返らずに、淡々と言う。


「黙って寝ろ」


ロウが小さく笑った。


そして、目を閉じる。


閉じた目が、少しだけ安堵の形をしていた。


レナートはその横顔を見て、胸の奥でだけ呟いた。


(治療だけしてろ、か)


(それは、俺の台詞だ)


そして外では、朝の気配が濃くなっていく。


噂が動く時間が来る。


紙が必要な時間が来る。


戦いは終わっていない。


だが今夜は――


一人、戻った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ