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第28話 倉庫街、白い花の馬車


北門の外は、王都の音が薄い。


音が薄い場所は、人が消えやすい。


倉庫街は、そういう場所だった。


古い木箱。


錆びた鎖。


乾いた藁の匂い。


そして、煤。


煤は火の記憶だ。


火の記憶は、消えない。


レナートは黒い外套のまま、倉庫街の入口で足を止めた。


伯爵家の騎士が二名。


影のように立っている。


ルーカスは紙束を抱え、冷静な顔のまま周囲を見ていた。


「白い花の印」


ルーカスが低く言った。


「神殿の紋ではありません」


「貴族の家紋の可能性が高い」


レナートは頷いた。


「神殿が貴族を使ってる」


「もしくは、貴族が神殿を使ってる」


どちらでも、やることは同じだ。


――取り返す。


倉庫街に入る。


路地が枝分かれしている。


追うべき匂いは、ひとつじゃない。


馬車の轍。


新しい藁。


そして、人の気配。


レナートは足を止め、地面を見る。


轍は二本。


深い。


荷が重い。


人を運んだ轍だ。


「こっち」


騎士が無言で散る。


片方が大回りで回り込み、片方が背後を封じる。


動きが静かすぎて、倉庫街の暗さに溶ける。


レナートは息を吐く。


呼吸は乱さない。


乱したら焦りが出る。


焦りは判断を鈍らせる。


判断が鈍れば、ロウが傷を増やす。


(増やすな)


(増やさせるな)


角を曲がった先。


朽ちた倉庫の前に、馬車があった。


白い花の印。


扉に小さく刻まれた紋。


花弁が六枚。


中心が細い線で割れている。


家紋だ。


神殿の印は、もっと露骨だ。


これは、借りもの。


借りた責任を押し付けられる印。


レナートは騎士へ目配せする。


騎士が馬車の周囲へ散る。


逃げ道を塞ぐ。


路地の奥。


屋根の上。


扉の脇。


囲いは完成。


レナートは倉庫の扉へ近づいた。


錠は外側から掛かっている。


中に閉じ込める形だ。


レナートは扉に耳を当てる。


呼吸音。


二つ。


いや、三つ。


一つは浅い。


浅いのは――痛みを堪えている。


ロウだ。


レナートの喉が一瞬だけ鳴った。


動きが速くなりそうになる。


速くなるな。


医師の手が焦れば、命を落とす。


レナートは低く言った。


「開けろ」


返事はない。


なら、開ける。


騎士が錠に手をかけた瞬間――


中から声がした。


女の声。


甘く、柔らかい声。


「入ってはいけません」


「ここは“保護”の場です」


保護。


またその言葉。


レナートは目を細める。


扉越しに言い返した。


「保護じゃない」


「確保だ」


一拍。


女の声が少しだけ硬くなる。


「医師殿」


「これは神殿の意向です」


神殿の意向。


それが通ると思っている。


今夜は通さない。


レナートはポケットから指輪を取り出した。


まだ嵌めないつもりだった。


でも、今は“紙”より“名”が早い。


レナートは指輪を指にはめた。


ベルデンベルク伯爵家の印章。


闇の中で、僅かに光る。


「俺はベルデンベルク伯爵家の者だ」


その声は低い。


低いのに、倉庫の空気が変わる。


名は刃だ。


「今この場で拉致監禁をしているなら」


「お前の家名も、神殿も、王宮で終わる」


扉の向こうが静かになる。


沈黙は、計算の音だ。


逃げ道を探している音。


逃げ道は塞いだ。


女が言った。


「……乱暴です」


レナートは返す。


「乱暴にしたのは、お前らだ」


そして、声が少しだけ低くなる。


「ローワンを返せ」


扉が軋む。


中の者が近づいている。


鍵が回る。


内側から、扉が少し開いた。


覗いたのは、若い女だった。


神官服ではない。


貴族の外套。


胸元に白い花の刺繍。


馬車の紋と同じ。


女は微笑んだ。


「ベルデンベルク卿」


「お噂は」


噂。


噂で人を縛る女だ。


レナートは微笑まない。


「名を言え」


女は首を傾げる。


「名など、必要ですか?」


必要だ。


必要だから聞いている。


紙にするために。


女は続けた。


「ただ、ひとつだけ」


「あなたの助手は、価値が高い」


価値。


その言葉が出た瞬間、レナートの怒りが底を打つ。


表情は動かない。


動かないが、声が冷える。


「価値じゃない」


「人だ」


女は笑う。


「人も価値で動きます」


「神殿も、王宮も、貴族も」


「あなたも」


レナートは即答した。


「俺は違う」


女は興味深そうに言う。


「では、なぜ追ってきたのです?」


その問いは、罠だ。


答えれば感情になる。


感情は弱点になる。


レナートは答えない。


代わりに一歩踏み込み、扉を押し広げた。


騎士が女の背後へ回り込み、動きを封じる。


女が小さく息を呑む。


「……まあ」


「伯爵家は、こんなに早いのね」


倉庫の中。


藁の上に、ロウがいた。


手首に粗い縄。


口には布。


目は開いている。


開いている目が、レナートを見る。


一瞬だけ、目が揺れる。


揺れるのは弱さじゃない。


怒りと、悔しさだ。


(来るなって言ったのに)


(それでも来たのか)


そんな目だ。


レナートはロウの前に膝をつき、布を外した。


「喋るな」


「息を整えろ」


医師の声だ。


ロウが掠れた声で言う。


「……先生」


その一言だけで、レナートの胸の奥が熱くなる。


熱くなるのに、顔は動かない。


動かしたら、相手の舞台になる。


レナートは縄を切る。


切りながら、低く言った。


「帰る」


女が背後で笑った。


「帰れると思ってるの?」


その瞬間。


倉庫の奥から足音。


神殿兵ではない。


鎧じゃない。


布の擦れる音。


灰色の祭服。


灰の祭服の男が現れた。


フードの影。


目元だけが見える。


声は低く、静かだった。


「……ベルデンベルク卿」


「あなたは医師だ」


「医師は命を救うものだ」


「なら、秩序に従え」


秩序。


秩序神。


神殿の言葉だ。


レナートは立ち上がった。


ロウを背に庇う。


「名を言え」


男はわずかに笑った。


「名は紙に書くものではありません」


紙に書かれたくない。


つまり、やましい。


レナートは言う。


「なら、お前は紙にする」


ルーカスが一歩前へ出た。


「王宮監査局、ルーカス」


「拉致監禁、証拠あり」


「今この場であなたの身柄を——」


灰の男が指を上げた。


その瞬間、空気が変わる。


祈りではない。


圧だ。


複数神の世界の、神殿側の圧。


女が小さく囁く。


秩序神オルドの……」


灰の男が静かに言った。


「境界に触れる者は、裁かれる」


その言葉は、クラリスへ向けた刃でもある。


レナートの声が冷たくなる。


「裁くのは王宮だ」


「俺が、連れて帰る」


そして、レナートは初めて“行動で示した”。


指輪を見せる。


伯爵家の印章を。


隠さない。


全面に押し出す。


庶民の医師として積み上げたものを守るために。


ロウを守るために。


「ベルデンベルクの名で命じる」


「退け」


倉庫の空気が、張りつめた。


灰の男の目が細くなる。


その瞬間、倉庫の梁の上から小さな影が落ちた。


――矢。


騎士が弾く。


矢は床に刺さる。


毒の匂い。


甘い匂い。


まただ。


同じ手だ。


レナートの目が、初めて怒りで燃えた。


「……いい加減にしろ」


声は低い。


低いのに、倉庫全体が震える。


「俺の患者に触るな」


「俺の助手に触るな」


「俺の手を汚させるな」


次の瞬間、騎士が動いた。


影が影を斬る。


倉庫の中で、静かな戦いが始まる。


そしてレナートは、ロウの肩に手を置いた。


指先は、震えていない。


医師の手だ。


命を落とさせない手だ。


「歩けるか」


ロウが歯を食いしばって頷く。


「……歩ける」


レナートは短く言った。


「なら、帰る」


その言葉は命令でもあり、約束でもあった。


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