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第26話 伯爵家が動く夜


レナートは、机の中央の空白を見ていた。


空白は、物がないことじゃない。


居るはずのものが、いないことだ。


封筒の封蝋は割れている。


一文は短い。


短いのに、喉の奥に残る。


封筒の中身は、たった一文だった。


「借りは返す。先生は治療だけしてろ。」


レナートは紙を見つめたまま、しばらく動けなかった。


その一文が、命令みたいで腹が立つ。


優しさみたいで、もっと腹が立つ。


指先で紙を押さえた瞬間、ふいに声が蘇った。


——

夜更けの施療所。


薬草の匂い。


縫合糸を結ぶ手元を、あいつは寝台から眺めていた。


痛みをごまかすみたいに笑って、唐突に言ったのだ。


「俺さ。先生が医者やってる姿、好きなんだ」


軽い冗談みたいに言って、すぐに目を逸らした。


照れ隠しの、雑な逸らし方だった。

——


レナートはその時、言葉を返せなかった。


返せなかったのに、胸の奥が少しだけ温まったのを覚えている。


今、その温度だけが、遅れて刺さる。


「……馬鹿」


声が漏れた。


怒りの声だ。


嬉しさを、怒りで包む声だ。


「だから、治療だけしてろって言うな」



治療だけしてろ。


――つまり、それ以外はするな。


巻き込まれるな。


俺のせいで、崩れるな。


ローワンらしい。


腹が立つ。


優しさが腹が立つ。


レナートはペンダントを握ったまま、目を閉じた。


握りつぶさない。


握りつぶしたら、戻れない。


戻れないのは、ローワンだけでいい。


レナートはゆっくり息を吐き、白衣ではなく黒の外套を取った。


白衣を着たら“医師”だ。


今必要なのは、医師だけじゃない。


医師の手を守るために、貴族の手がいる。


扉を開ける。


廊下にはルーカスがいた。


初めから、そこにいた顔。


「消えましたね」


ルーカスは淡々と言う。


レナートは返した。


「どこだ」


「まだ割れていません」


「割る」


ルーカスの目が細くなる。


「あなたが割りますか」


レナートは短く言った。


「俺が割る」


“俺”が、当たり前になっている。


怒りが常態になっている。


レナートは施療所のスタッフに指示を出す。


声は大きくない。


でも逆らえない。


「今日の診療は続ける」


「薬棚の鍵は二重管理」


「封印は記録して、毎回確認」


「外の者は入れるな」


「泣こうが喚こうが、入れるな」


スタッフが頷く。


泣き落としは効かない。


それはこの場の全員が知った。


レナートは外へ出る。


馬車に乗る。


行き先は王宮でも、公爵邸でもない。


伯爵家の邸。


ベルデンベルクの屋敷。


街の外れに、黒い塀がある。


塀の高さが、家格を語る。


門が開く。


迎えの執事が一礼した。


「お帰りなさいませ、レナート様」


“様”が、急に重い。


レナートは言った。


「当主は」


「執務室に」


レナートは歩く。


歩きながら、指先でペンダントを触る。


革紐の感触が、胸の奥を刺す。


執務室の扉を開ける。


中にいたのは、男。


髪は灰色。


背筋が伸びている。


目が鋭い。


ベルデンベルク伯爵。


父だ。


父はレナートを見るなり、机の上の封筒を見た。


封筒ではない。


レナートが握るペンダントを見た。


「……返されたか」


父はそう言った。


説明はいらない。


この家は、そういう家だ。


レナートは短く言う。


「消えた」


父は手元の紙に目を落としたまま答える。


「神殿が手を伸ばした」


「王宮が止めた」


「だから神殿は、民にやらせる」


レナートの目が冷たくなる。


「民にやらせる」


父は頷く。


「噂。扇動。恐怖」


「そして子ども」


レナートの指が机の端を掴む。


「子どもに手を出すのか」


父は淡々と返す。


「神殿にとっては“駒”だ」


「価値のある駒は、使う」


レナートは言った。


「俺の駒じゃない」


父が初めて顔を上げた。


「なら、奪い返せ」


「ベルデンベルクが動けば、神殿も動く」


「覚悟はあるか」


レナートは即答した。


「ある」


父は机の引き出しから指輪を一つ出した。


印章指輪。


家の印。


それを机に置く。


「使え」


レナートは指輪を見る。


それは、“庶民の中で医師をやる”ために避けてきたものだ。


全面に押し出せば、民は引く。


神殿は口実にする。


だから隠してきた。


でも今は違う。


守るために、出す。


レナートは指輪を受け取った。


重い。


重いが、冷たい。


冷たいのは、迷いを切るからだ。


父が言った。


「まず、監査局と王宮へ」


「次に、神殿の内側」


「神殿の内側には、必ず“嫌っている者”がいる」


「秩序神を盾にする者ほど、裏では秩序が嫌いだ」


レナートは言う。


「内側に入る方法は」


父は淡々と答える。


「金と、名と、借り」


借り。


ローワンが言った言葉が、胸の奥でひっかかる。


借りは返す。


なら、俺も返す。


父は呼んだ。


「執事長」


執事長が入ってくる。


「家の手を回せ」


「街の裏の情報屋、二つ」


「神殿の下役、三つ」


「救貧倉の人夫」


「市場の泣き役を雇った口」


「すべて、今夜中に糸を掴め」


執事長が一礼する。


「承知しました」


父はさらに言う。


「それと、騎士を二名」


「腕の立つ者」


「静かに運ぶ者」


運ぶ。


つまり“連れ戻す”。


レナートは短く言う。


「傷を増やすな」


父が頷く。


「増やさない」


「増やすと、神殿に餌をやる」


レナートは立ち上がった。


「俺が動く」


父が言う。


「お前は医師だ」


「それを忘れるな」


レナートは答える。


「忘れない」


「だからこそ、潰す」


潰す相手は“泣き役”じゃない。


“祈り役”じゃない。


瓶を混ぜた手でもない。


その上。


指示した上。


神殿の中で、秩序神を口にしながら秩序を壊している者。


レナートは屋敷を出る。


夜の街へ。


指輪はポケットの中。


でも重さは、手の中にあるみたいに感じる。


ルーカスが馬車の中で言った。


「クラリス様には」


レナートは答えた。


「知らせる」


「紙で動ける人間は必要だ」


ルーカスが頷く。


「公爵家と、伯爵家」


「王宮は逃げ道を失いますね」


レナートは笑わない。


笑える状況じゃない。


ただ低く言った。


「逃げ道を失うのは、神殿だ」


その夜。


ベルデンベルクの使いが、王都の裏で一つの名を拾った。


泣き役の女に金を渡した男。


そしてその男が、神殿の裏門へ消える姿。


ルーカスが紙に書きつける。


「神殿下役、名:バルト」


名が出た。


名が出れば、紙になる。


紙になれば、裁ける。


レナートは言った。


「バルトを押さえる」


ルーカスが淡々と返す。


「生かして?」


レナートの目が冷たく光る。


「生かす」


「……吐かせる」


そして、夜が深くなる。


神殿の裏門の影で、レナートは黒い外套のまま立っていた。


もう庶民の医師ではない。


伯爵家の男として。


医師の手を守るために。


そして、ローワンを取り戻すために。

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