第25話 封蝋の一文
夜の施療所は、昼より静かだ。
静かなのに、眠れない音がある。
紙の擦れる音。
蝋が温まる音。
人の息が浅くなる音。
市場の噂を紙で押し返した夜。
それでも噂は、壁の外で生きている。
ロウは寝台に横になりながら、天井を見ていた。
痛みはもう、立てないほどじゃない。
歩ける。
走るのはまだ無理だが、逃げるくらいならできる。
逃げる。
その言葉を、ロウは嫌いだった。
でも今夜だけは、逃げるじゃない。
――返す、だ。
返すものがある。
服の下。
胸元にいつも当たる、小さな重み。
革紐のペンダント。
身元証。
最初に拾われた日に、首にかけられたもの。
「これを付けていろ」
そう言って、先生は淡々としていた。
淡々としていたくせに、指先はやけに丁寧だった。
ロウは指を伸ばし、革紐に触れた。
金具を外す。
外すと、胸元が妙に寒い。
寒いのに、呼吸は少し楽になる。
(これでいい)
(先生の邪魔をしない)
(先生は、治療だけしていればいい)
廊下に出る。
足音を殺すのは得意だ。
昔の癖。
使い捨てだった頃に、身についた癖。
施療所の奥。
レナートの執務机。
いつも薬の匂いがする場所。
紙と、記録と、命の匂いがする場所。
ロウは机の上を見た。
今夜は整っている。
整っているのに、怒りの気配だけが残っている。
あれだけ怒っていたのに、先生は結局、治療をやめなかった。
やめない人だ。
だからこそ、守りたい。
ロウは小さな封筒を取り出した。
小さい。
でも、紙は小さくても強い。
封筒の表に書く。
「レナートへ」
それだけ。
中に、ペンダントを入れる。
革紐を折り、丁寧に納める。
次に、紙を一枚。
一文だけ。
余計なことは書かない。
書けば、弱くなる。
ロウはペンを握り、短く書いた。
「借りは返す。先生は治療だけしてろ。」
それで終わり。
ロウは封筒を閉じた。
蝋を落とす。
赤い蝋が、紙に丸く広がる。
印を押す。
診療所の簡易印。
誰が見ても、開けたら分かる印。
(これなら、捏造って言わせない)
(触ったやつがいたら、分かる)
封筒を机の中央に置く。
置いた瞬間、机が“空白”になる。
ここから先は、先生の机じゃない。
ロウの席がない机だ。
ロウは息を吐いた。
吐いた息が震えそうになる。
震えたら、負けだ。
ロウは振り返らずに歩いた。
振り返ったら、戻ってしまう。
戻ったら、また狙われる。
先生が巻き込まれる。
だから、振り返らない。
外へ出る裏口の鍵は、もう覚えている。
扉を開けると、夜の空気が刺さった。
刺さる空気が、やけに気持ちよかった。
(大丈夫だ)
(俺は、消えるのが得意だ)
そう思って、闇へ足を踏み出した――
そのとき。
背後で、床板が小さく鳴った。
ほんのわずかな音。
でもロウには分かる。
誰かが起きた音だ。
ロウは動きを止めず、心だけで舌打ちした。
(……気づくなよ)
(先生)
闇の中へ、ロウは消えた。
そして、朝。
レナートはいつもの時間に机へ向かった。
机の中央に、封蝋。
赤い蝋。
整いすぎた丸。
その“整い”が、嫌な予感を連れてくる。
封筒の表には、短い文字。
「レナートへ」
彼は封蝋を見つめたまま、しばらく動かなかった。
動かなかったのに、空気だけが冷えていく。
指先が、封蝋に触れる。
触れた瞬間。
彼の喉が、わずかに鳴った。
封を割る。
紙が一文だけ落ちる。
「借りは返す。先生は治療だけしてろ。」
そして最後に、革紐の重み。
ペンダント。
身元証。
レナートの指が止まる。
止まったあと、ゆっくりと握り潰すように強くなる。
息が一つ、深く落ちた。
次の瞬間。
声が出た。
低い声。
抑えた声。
抑えきれない声。
「……ローワン」
たったそれだけ。
それだけで、怒りが形になる。
机の上の紙が、震えた。
レナートは顔を上げた。
目が、もう医師の目じゃない。
患者を守るために、全部を使う目だ。
「探す」
“僕”は、出なかった。
「……俺が」
その言葉と同時に、彼は外套を掴んで立ち上がった。




