第24話 声明文、噂は市場で殺す
夜明け前の王都は、冷える。
冷える空気は人の口を軽くする。
口が軽いと、噂が早い。
噂が早いと、紙が遅れる。
だから――紙は、夜のうちに作る。
施療所の執務机に、蝋燭が一本。
蝋燭の火が揺れるたび、クラリスの指先が白く見えた。
ルーカスが紙束を整え、端を揃える。
お父様が封蝋を温める。
レナートは壁際で腕を組み、黙って立っていた。
黙っているのに、部屋の温度だけが低い。
怒りが、まだ燃えている。
クラリスは袖の中の境界紙を握った。
熱はもうない。
でも残っている。
『次:声明文(公爵名義)
目的:噂の封殺/生活の防衛
準備:記録/配布/市場』
順番は決まっている。
「まず、事実だけ」
クラリスが言うと、ルーカスが頷いた。
「余計な感情は入れません」
「相手に“感情的”と言わせない」
クラリスは白猫の微笑のまま、紙の上に視線を落とす。
文面は短いほど強い。
短いほど、切り取られない。
だから必要なものだけを残す。
――共同施療所における混入の疑い。
――物証の封印と提出。
――神殿の単独介入の禁止(王宮決定)。
――民の診療継続。
――当面の窓口。
それだけでいい。
お父様が低く言った。
「署名は“アルヴェーン公爵”として出す」
「娘は表に出すな」
クラリスが頷く。
「うん。私が表に出ると、向こうが“魔女”を作る」
レナートが短く息を吐いた。
微かに鼻で笑うような音。
笑っていない。
苛立ちの音だ。
「魔女でも何でもいい」
レナートの声は平坦だ。
でも怒りが混ざっている。
「ローワンに触るな」
その一言だけが、体温を持っていた。
クラリスはそれを拾わない。
拾うと、話が“感情”になる。
代わりに、紙を進める。
ルーカスが言う。
「市場への配布は、三方向」
「掲示板、ギルド前、施療所前」
「読み上げ役も立てます」
クラリスは頷いた。
「読む人は、施療所のスタッフ」
「“現場の声”として読ませる」
お父様が封蝋を押す。
印章がつく。
紙が、ただの紙じゃなくなる。
その瞬間、部屋の空気が少しだけ軽くなった。
“できる”という空気になる。
しかし――軽くなった空気は、外では通用しない。
外は噂の海だ。
朝の市場。
干し肉の匂いと、魚の匂い。
野菜の土の匂い。
そして人の声。
声が声を呼び、噂が噂を呼ぶ。
クラリスは馬車の中から市場を見た。
人は紙より早い。
紙は声より遅い。
でも紙には、残る力がある。
掲示板の前に、人が集まっていた。
すでに誰かが貼っている。
貼っている紙は、こちらのものではない。
白い紙に、太い字。
『施療所、毒の巣』
『境界の呪い、民を蝕む』
『神殿の保護を拒む者、同罪』
クラリスの中で、冷たいものが落ちた。
来た。
自然な切り替え。
昨夜は“緊急”で殴れなかった。
なら今日は“世論”で殴る。
神殿の一番得意なやつ。
ルーカスが低く言う。
「早い」
「昨日の夜に仕込んでいます」
お父様が言う。
「紙で殴り返せ」
クラリスは微笑んだ。
「殴り返す」
「でも、順番を守る」
クラリスは馬車を降りた。
白猫の微笑で、群衆の前へ出る。
ここではフルネームはいらない。
名を名乗ると、噂が名を噛む。
だから最初は、公爵家の人間として立つ。
ルーカスが掲示板の前へ進み、神殿の紙を剥がした。
剥がすと、怒号が飛ぶ。
「おい!何してる!」
「神殿の紙だぞ!」
「魔女がいるんだろ!」
クラリスは声を張らない。
声を張ると、喧嘩になる。
代わりに、ルーカスが淡々と紙を掲げた。
封蝋つき。
王宮宛の控え印。
「こちらはアルヴェーン公爵家の声明文」
「王宮監査局に提出済みの写しです」
“提出済み”。
その言葉が効く。
人は、王宮という言葉に弱い。
神殿より上だと思っているから。
ルーカスが読み上げる。
事実だけ。
短く。
強く。
「共同施療所にて、薬剤混入の疑いが発生」
「物証は封印のうえ王宮へ提出済み」
「医師の過失ではなく第三者介入の可能性が高い」
「王宮決定により、神殿の単独介入は禁止」
「診療は継続する」
読み終えた瞬間、空気が変わる。
噂が、紙に押されて後退する。
完全には消えない。
でも勢いが止まる。
止まれば勝てる。
そこへ、泣き声が上がった。
人混みの中。
白い布を被った女が、地面に膝をついている。
「こわい……」
「施療所がこわいの……」
涙で声が震える。
見事な被害者ムーブ。
そして、その女の隣に、神殿の小僧が立っていた。
祈りの姿勢。
「秩序神よ……民をお守りください……」
神名を出した。
市場で神名を出すのは強い。
神名は、“反論すると不敬”になるからだ。
クラリスは微笑んだ。
(世論操作)
泣き役。
祈り役。
そして“魔女”の噂。
神殿は切り替えた。
緊急で奪えないなら、民の手で奪わせる。
「怖いなら、来なければいい」
誰かが言う。
「でも薬がないんだろ?」
別の誰かが言う。
「神殿が管理すれば安心だ」
声が揺れる。
揺れる声が、噂の波になる。
そのとき、レナートが一歩前へ出た。
黒い外套。
長身。
美しすぎる顔。
市場の汚れた空気の中で、異様に目立つ。
セレスティアが泣いても効かない。
そのルールは、市場でも同じだ。
泣いている女を見ても、レナートの視線は動かない。
動くのは、掲示板の紙だけだ。
レナートは淡々と言った。
「その泣き声で、患者は治らない」
人が息を呑む。
レナートは続ける。
「薬は、正しく使えば命を守る」
「混ぜれば、殺す」
「昨夜、混ぜられた」
「混ぜたのは、施療所の医師じゃない」
「第三者だ」
泣き女が顔を上げる。
「……嘘……」
レナートは視線を合わせない。
合わせたら、舞台に乗る。
「嘘なら、王宮が裁く」
「証拠は封印して出した」
「封印を破って確かめたいなら、王宮へ行け」
言葉が冷たい。
冷たい言葉は、噂を冷やす。
泣き女が震える。
震えると、周囲が同情する。
同情が波になる。
だがレナートは波に反応しない。
反応しないことで、波が落ちる。
「それでも怖いなら」
レナートは最後に言った。
「来るな」
「俺は、来た患者を治す」
“俺”が漏れた。
ほんの一瞬。
でもクラリスは気づく。
(ロウの話題が出る前なのに、俺が出た)
怒りが、もう常態だ。
神殿がローワンを触り続けているせいで。
クラリスは白猫の微笑で一歩前に出る。
「怖い気持ちは分かります」
「だからこそ、紙で確かめてください」
「神殿の紙は、扇動です」
「アルヴェーン公爵家の紙は、事実です」
そして、ここぞでフルネームを使う。
「クラリス・フォン・アルヴェーンは、民を脅しません」
「民を守るために、証拠を王宮へ出しました」
群衆の空気がまた変わる。
強い。
神殿は“感情”で寄せる。
こちらは“手続き”で寄せる。
手続きは、弱い人間にも盾になる。
その時。
人混みの端で、赤毛が揺れた。
見えないはずの赤毛。
クラリスの背中が冷える。
(ロウ?)
違う。
ロウではない。
似た髪色の子どもだ。
でも、その子どもが、神殿の小僧と目が合った瞬間――
小僧の口元が、わずかに笑った。
笑ったのは一瞬。
でも十分だった。
(次は、子どもを使う)
神殿は、世論を作る。
世論を作るために、子どもを使う。
ロウの“使い道”がある。
クラリスは袖の中の境界紙を握った。
熱は返さない。
でも、次の順番は分かる。
声明文は出した。
噂の封殺は、半分成功。
次は――
“誰が噂を作っているか”を紙にする番だ。
クラリスは微笑を保ったまま、ルーカスに囁く。
「泣き役と祈り役」
「雇い主を割る」
ルーカスが頷く。
「はい」
レナートは、まだ市場の空気を切って立っている。
その背中が言っている。
――もういい加減にしろ。
――ほっといてくれ。
――触るな。
声に出さなくても、誰よりも強く。
そして、その怒りが向かう先はひとつだけだった。




