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第23話 境界紙の熱、聖女の神名


神殿兵が一歩前に出た。


鋲のついた靴底が、床を押す。


それだけで施療所の空気が変わる。


医療の場の空気が、裁きの場の空気へ塗り替えられていく。


クラリスは封蝋つきの封筒を掲げたまま、微笑を崩さない。


崩した瞬間、ここは奪われる。


だから崩さない。


そのとき。


袖の中で境界紙が熱を返した。


『次:緊急差止(王宮照会)

目的:接収阻止/責任転嫁の封殺

準備:証拠封印/目撃者/診断書控え』


熱は一瞬。


でも十分だった。


クラリスの頭の中で、順番が固まる。


「ルーカス」


クラリスは微笑のまま言った。


「王宮へ、緊急照会」


「“神殿の緊急権”の根拠条文と、適用条件」


ルーカスが即座に頷く。


「はい」


封筒をもう一つ取り出す。


控え。


封蝋。


この瞬間、紙が“二重”になる。


奪われても、残る。


セレスティアが柔らかく息を吸った。


「クラリス様」


声は甘い。


甘いのに、空気を凍らせる種類の甘さだ。


「緊急です」


「民を守るために、神殿が預かります」


「預かる」――都合のいい言葉。


預かって、返さない。


預かって、汚す。


預かって、“正しい形”にして返す。


クラリスは微笑んだ。


「預かるなら手続きが必要です」


「王宮の運用規定で、神殿の単独介入は禁止されました」


セレスティアは首を傾げる。


困った顔を作る。


困った顔は、被害者の顔になる。


「規定は存じています」


「ですが、神の御意思は――」


ここで初めて、彼女は神を出してきた。


白い衣の胸元に手を当て、言う。


秩序神オルドの御意思は、混乱を止めよ、と」


秩序神。


神殿が祀る神。


国家と結びつく神。


クラリスの内側が、冷たく笑った。


(出した)


神名を出した瞬間、ここは宗教戦に見える。


宗教戦に見えると、王宮は判断を渋る。


判断を渋れば、現場は神殿が取れる。


セレスティアは泣きそうな目で続けた。


「今夜、施療所で事故が起きました」


「事故が続くのは、あなたの契約が――」


クラリスは遮らない。


遮ると、悪者になる。


代わりに、白い机の上の論理で返す。


「事故は“混入”です」


「原因は瓶。証拠は封蝋」


「触れた瞬間に、証拠隠滅になります」


セレスティアの微笑が揺れる。


揺れるのはほんの一瞬。


でもクラリスは見逃さない。


神殿兵がまた一歩出る。


「聖女様、御命令を」


命令。


命令の場にされる。


その瞬間、レナートが前に出た。


黒の外套が、白い灯りを裂く。


今までの彼は、平坦で冷たかった。


冷たいのに、抑えていた。


でも今は違う。


抑えが、きしんでいる。


目が、怒っている。


「動くな」


レナートの声は低い。


それだけで、兵の足が止まった。


止まるのが先。


怖がって止まった。


理屈じゃない。


本能で止まった。


セレスティアが眉を下げる。


「レナート様……」


「あなたは医師です」


「民を守る立場でしょう」


レナートは返す。


「守ってる」


一拍。


言葉が、噛み砕かれる。


「俺は守ってる」


“俺”が出た。


たった二文字で、空気の温度が変わる。


クラリスの背中が少し冷える。


レナートの“俺”は、危険だ。


今夜は引き金が多すぎる。


セレスティアが一歩近づく。


泣きそうな顔で、優しく言う。


「あなたも疲れているのです」


「だから一旦、神殿が預かります」


「あなたの責任も、軽くなります」


責任が軽くなる。


――甘い毒。


医師にとって、一番吐き気がする言葉。


レナートの口角が、ほんの少しだけ上がった。


笑みじゃない。


怒りが笑いに変換された形だ。


「責任?」


「責任を軽くしたいなら、最初から殴るな」


「最初から攫うな」


「最初から薬を混ぜるな」


言い切りが、釘みたいに刺さる。


セレスティアの瞳がわずかに揺れる。


彼女はすぐに立て直す。


「そんな……神殿が、そのようなことを?」


レナートは淡々と、しかし低い声のまま言った。


「俺の補助が狙われている」


「一度じゃない。二度じゃない」


「ローワンは、子どもだ」


子ども。


十四歳。


その言葉の出し方だけで、レナートがどれだけ我慢してきたか分かる。


「いい加減にしろ」


声が、初めて荒れた。


荒れた瞬間の息が、熱い。


「ほっといてくれ」


「治療させろ」


「お前らの都合で、患者を巻き込むな」


施療所のスタッフが息を呑む。


神殿兵の指が、剣に触れる。


危ない。


ここで刃を抜かれたら、神殿の“緊急”が成立する。


クラリスは一歩、レナートの横へ出た。


白猫の微笑で、場を冷やす。


「セレスティア様」


呼び方は丁寧に。


でも距離は取る。


「あなたは秩序神オルドを名乗りましたね」


セレスティアが頷く。


「はい」


「秩序神の御意思です」


クラリスは微笑のまま続ける。


「では、秩序に従ってください」


「王宮の規定に従ってください」


「秩序神を名乗るなら、秩序の外に出ないでください」


セレスティアの微笑が固まる。


言葉で縛られた。


神名を出した瞬間、神名で縛れる。


クラリスはさらに一歩進める。


「あなたが今夜、ここを接収するなら」


ここぞでフルネームを出す。


「クラリス・フォン・アルヴェーンは、王宮へ即時提訴します」


「証拠隠滅と、医療妨害」


「そして――民の生命への危害」


ルーカスが、すでに封筒を掲げている。


「緊急照会書、送達準備済み」


セレスティアは兵を見た。


兵は動けない。


動いた瞬間、紙になる。


レナートが、まだ前に立っている。


怒りで、背筋がまっすぐだ。


怒りが、彼を支えている。


セレスティアは、呼吸を整えた。


泣かない。


今泣いたら負けが見える。


代わりに、静かに言った。


「……分かりました」


「今夜は引きます」


引く。


でも引くときは、次の一手を置く。


セレスティアはクラリスを見て、柔らかく微笑んだ。


「ですが、覚えていてください」


秩序神オルドは、境界を嫌います」


「境界に立つ者は――いつか必ず、裁かれる」


境界。


この言葉を出した。


彼女は知っている。


クラリスが“境界側”だと。


つまり神殿は、もう確信を持っている。


クラリスは微笑を崩さない。


神名は言わない。


境界神の名は出さない。


出せば、彼女は“魔女”になる。


でも、すでに魔女だ。


なら、魔女らしく――紙で殴る。


「裁きは、王宮で」


クラリスは淡々と言った。


「それが秩序です」


セレスティアが去る。


神殿兵も去る。


足音が遠ざかり、施療所に薬草の匂いが戻る。


でも戻った匂いの下に、残るものがある。


恐怖。


そして怒り。


レナートが背を向けた。


肩が少しだけ揺れている。


怒りを押し込める揺れだ。


クラリスが小さく言う。


「……レナート」


彼は振り返らないまま言った。


「ローワンを、これ以上触らせない」


「俺が、守る」


その言葉は、乱暴だった。


でも乱暴な言葉ほど、嘘がない。


クラリスは袖の中の境界紙を握る。


熱はもうない。


でも、順番は残っている。


次は声明文。


噂の封殺。


生活の防衛。


神殿が“魔女”を作るなら――


こちらは“事実”を作る。


紙で。


そして朝までに、王都の市場に貼り出す。


クラリスは白猫の微笑を戻し、短く言った。


「やろう」


「今夜の汚さは、夜のうちに紙にする」

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