第22話 静かな事故の犯人は、紙の外にいる
奥の処置室は、灯りが強い。
強い灯りは影を消す。
影が消えると、嘘が作りにくい。
だから医療の現場は、嘘にとって居心地が悪いはずだった。
――はずなのに。
今夜の嘘は、灯りの中で息をしていた。
「息が浅い、酸素!」
レナートの声は平坦だった。
平坦なのに、命令が速い。
看護助手が走る。
水を含ませた布。
脈を取る指。
胸の上下。
患者は老人だった。
昼間まで歩いていたはずの男が、急に青白い。
口元に泡が見える。
これは病気じゃない。
“起こされた”症状だ。
クラリスは一歩引いて、周囲を見る。
人の動き。
道具の位置。
薬瓶の並び。
そして――匂い。
わずかに甘い。
薬草の甘さではない。
化学的な甘さ。
(混入)
レナートが短く言った。
「何を飲ませた」
受付の女性が震える声で答える。
「いつも通りの……咳止めのシロップです」
「いつもの瓶から、規定量を」
レナートの目が、棚の方向へ一瞬だけ向く。
棚は封印した。
鍵も持っている。
それなのに“いつもの瓶”が出てきたということは――
棚の外に、同じ瓶がある。
クラリスは即座に言った。
「その瓶、見せて」
女性が震える手で瓶を差し出す。
瓶は確かに咳止め。
ラベルも同じ。
封も、開けた痕がある。
でも、封の剥がし方が雑だ。
“急いで開けた”雑さじゃない。
“慣れていない者が真似た”雑さ。
クラリスはラベルの縁を指で押した。
紙が少し浮く。
貼り直し。
つまり――中身を入れ替えた。
「レナート。これ、貼り直し」
レナートが瓶を受け取り、鼻先で匂いを確かめた。
眉がほんの少し動く。
「……甘い」
「咳止めの甘さじゃない」
レナートはすぐに命じる。
「吐かせる準備」
「胃洗浄は無理だ、吸着剤」
「脈、血圧、瞳孔」
動きが速い。
速いのに、乱れない。
乱れないのが怖い。
理性の形をした刃だ。
クラリスはルーカスを見た。
「これ、事故じゃない」
ルーカスはすでに紙を出している。
「目撃と手順、全部記録します」
「瓶の保全、封印」
クラリスは短く言った。
「棚の外に“替え瓶”がある」
「誰が置いたか、動線」
「今夜の人の出入りを洗う」
ルーカスが頷く。
「入口の見張りも含めて」
お父様が低く言った。
「神殿の監督官補……エルネストの警告」
「当たったな」
クラリスは答える。
「当てたのかもしれない」
当てたのか、仕掛けたのか。
警告して信用を作るのは、よくある手だ。
でも、彼は“名乗れなかった”。
名乗れない人間は、上の命令で動く。
つまり、上がいる。
(誰が上)
クラリスの脳が回る。
今夜の目的は二つ。
一つは、施療所に“危険”の印象を残すこと。
もう一つは、レナートを“加害者”にすること。
医師が薬を間違えた、医師が混入した、医師が隠した。
そうやって、信頼を削る。
削ってから、神殿が介入する。
「ほら、神殿が必要でしょう?」
そのための静かな事故。
レナートが患者の胸を押さえながら言った。
「クラリス」
名前で呼ばれた。
いつもは「君」か「公爵令嬢」か、距離のある呼び方をする人なのに。
今夜は距離が縮む。
縮むのは、理性が限界に近い証拠だ。
「薬棚の封印、見せて」
「誰か触れたなら、痕が残る」
クラリスは頷いた。
「今すぐ」
処置室を出て、薬棚へ向かう。
棚の封印蝋は、確かにある。
けれど――角がわずかに欠けている。
欠けたのは小さい。
小さいほど厄介だ。
“壊してない”と言い張れる。
クラリスが言う。
「欠けてる」
ルーカスが近づき、虫眼鏡を出した。
封印蝋の縁に、爪の痕がある。
蝋は柔らかい。
だから爪で少しだけ削れる。
完全に破らずに、鍵穴へ手を入れる。
そして鍵は――
レナートが持っている。
鍵を持っているのに開けられた?
違う。
鍵穴からではない。
棚の背板だ。
古い棚なら、背板を外せる。
クラリスは棚を横から見る。
背面の壁との隙間。
そこに、ごく薄い紙片。
クラリスはそれを抜いた。
紙片には、数字。
「……二」
そして、薄く残る匂い。
甘い匂い。
替え瓶を作った紙だ。
「背面から入れた」
ルーカスが即答する。
「棚の裏に回れる動線があるはずです」
お父様が言った。
「裏は誰が管理している」
受付の女性が顔色を失う。
「……裏は物置に繋がってて、鍵は……執事長と、あと……」
言い淀む。
クラリスが静かに促す。
「あと?」
「……神殿の方が」
空気が凍る。
「今日、視察だと言って来て……物置も見たいと言って……」
「鍵を貸してって……」
つまり。
エルネストが鍵を借りた。
貸した。
貸させた。
貸した時点で、物語が作られる。
「施療所が神殿に協力した」
そういう形にできる。
ルーカスが淡々と紙に書く。
「鍵の貸与。時刻。立会いの有無」
クラリスは息を吸った。
エルネストは“止めに来た”と言った。
「棚を見ろ、封印を見ろ、指が残る」
でも実際、指が残るように動いた可能性もある。
指を残して、上を引っ張り出す?
それとも、指を残して、こちらを引っ張り出す?
どっちだ。
どっちでも、今夜の主役は瓶だ。
瓶は物証。
物証は紙になる。
クラリスは言った。
「瓶を封印して、王宮へ」
「診断書とセットで」
「“医師の過失”ではなく“第三者の混入”として立てる」
レナートが処置室から戻ってきた。
白衣の袖に、わずかに水が付いている。
水じゃない。
汗だ。
彼は平坦に言った。
「……持ち直した」
「今は、眠っている」
クラリスは頷いた。
「よかった」
レナートの目が、瓶へ移る。
「これは、俺の敵だ」
一瞬だけ“俺”が漏れた。
漏れた瞬間、周囲の温度が落ちる。
レナートはすぐに表情を戻す。
戻しても、漏れた言葉は戻らない。
クラリスは言った。
「敵は瓶じゃない」
「瓶を置いた手」
「そして、その手に指示した上」
ルーカスが言う。
「今夜の出入りを洗えば、動線が出ます」
「見張りの雇い主も割れます」
お父様が頷いた。
「割るぞ」
その時。
外から、金属の擦れる音がした。
馬車の車輪じゃない。
剣の鞘。
そして、複数の足音。
施療所の入口がざわつく。
受付の女性が青ざめて言った。
「……神殿です」
「今度は、“視察”じゃありません」
クラリスが扉の方を見る。
夜の闇から、灯りを背にして、神殿兵が入ってくる。
先頭に、白い衣の女。
セレスティア。
王宮で泣いた目は、もう乾いている。
乾いている目は、怖い。
セレスティアが微笑んだ。
「クラリス様」
「また事故が起きたと聞きました」
「民のために、神殿が“保護”いたします」
保護。
またその言葉。
そして今度は、兵を連れている。
これは保護じゃない。
接収だ。
クラリスは白猫の微笑で言った。
「王宮の決定を無視するのですか」
セレスティアは微笑んだまま首を傾げる。
「無視ではありません」
「緊急です」
「緊急時は、神殿が優先されます」
嘘だ。
でも、嘘は“今”なら通る。
通ったら、後から否定しても遅い。
だから、ここで止める。
クラリスは机の上の封筒を持ち上げた。
封蝋つきの封筒。
「この瓶は、王宮へ提出済みです」
「あなたが触れた瞬間、証拠隠滅になります」
セレスティアの微笑が、わずかに揺れる。
揺れた瞬間、クラリスは畳みかけた。
「それでも触るなら」
ここぞ、という場面でフルネームを使う。
「クラリス・フォン・アルヴェーンは、王宮であなたを裁きます」
その言葉の直後。
セレスティアの目が、ひとつだけ細くなった。
そして、柔らかく言った。
「裁く?」
「……あなたが?」
白い笑みが、蛇の内心を覗かせる。
「では、見せてください」
「あなたの“正しさ”を」
神殿兵が、一歩前に出た。
静かな事故の次は、力の事故だ。
クラリスは微笑を崩さない。
崩さないまま、言った。
「ルーカス」
「王宮へ、合図」
「レナート、患者を守って」
「お父様――」
「ここは、紙で止める」
そう言って、クラリスは封筒を掲げたまま、一歩前へ出た。




