第20話 契約公開、王宮の白い机
王宮の夜は静かすぎる。
静かなのに、足音だけはよく響く。
響く足音は、誰がどこへ向かっているかを暴く。
だから王宮の人間は、音を立てない歩き方を覚える。
クラリスは、その廊下を堂々と歩いた。
堂々と歩くのは、怯えを見せないためだ。
怯えは、紙を奪われる。
半歩後ろにお父様。
さらに後ろにルーカス。
そして――レナート。
白衣ではなく黒の外套を羽織った医師は、王宮にいるだけで異物だ。
けれどその異物感が、今夜は武器になる。
「“神殿の慈善”は綺麗だ」
ルーカスが小声で言う。
「だから、汚い手が映える」
クラリスは頷いた。
「映えさせない」
「紙で、消す」
案内された部屋は司法官の執務室だった。
扉の前には王太子の紋章。
その名があるだけで、空気が一段重くなる。
中に入ると、白い机が置かれていた。
白い机は、血を隠せない。
だからここは、嘘を嫌う場所だ。
司法官が先に座っていた。
その隣に王太子レオンハルト。
反対側の席に聖女セレスティア。
白い衣。
白い微笑。
白い涙が似合う顔。
彼女の空気は最初から、“こちらが悪い”に整っている。
クラリスは白猫の微笑で礼をした。
「クラリスです」
レオンハルトが淡々と告げる。
「座れ」
座った瞬間、机の白さが近くなる。
白は、全部を見せる。
レオンハルトが言った。
「契約について確認する」
「境界の契約だ」
クラリスは頷いた。
「はい」
セレスティアが柔らかく息を吸う。
そして柔らかく言った。
「クラリス様……」
その呼び方が、すでに被害者だ。
「お願いです」
「王国のために、争いを終わらせましょう」
争いを終わらせる。
つまり、譲れと言う。
クラリスは微笑んだまま返す。
「争いを始めたのは誰ですか?」
セレスティアの微笑が一瞬止まる。
すぐに目元が潤む。
潤むのが早い。
「……私が悪いんです」
「私が、皆さんを困らせてしまって……」
出た。
公開の場で泣く。
“私が悪いから”で、相手を悪者にするやつ。
レオンハルトが机を軽く叩く。
「聖女。感情ではなく、要点を」
セレスティアは涙を拭う。
拭い方が綺麗だ。
「はい……」
「境界の契約は危険です」
「神殿の加護体系に矛盾が生まれます」
「王国の秩序が乱れます」
矛盾。
秩序。
綺麗な言葉で縛る。
クラリスは言った。
「矛盾の中身を、条文で」
ルーカスが一歩前に出る。
「監査局ルーカス。資料を提出します」
封蝋のついた束が机に置かれる。
司法官が目を落とす。
「境界契約の原本写し」
「神殿側の調査命令」
「救貧倉での拘束と外傷の診断書(署名:レナート)」
最後の一枚が置かれた瞬間、空気が少し変わった。
傷は、噂じゃない。
紙になる。
レオンハルトの視線が診断書に落ちる。
「……本物か」
レナートが淡々と答えた。
「僕の署名です」
「偽造ではありません」
セレスティアが小さく息を呑む。
目の端が揺れる。
揺れたのは悲しみじゃない。
焦りだ。
彼女は“傷”のカードが来ると思っていなかった。
レオンハルトが言う。
「ローワンの件は後で扱う」
「今は契約だ」
そして王太子は、クラリスを名で呼んだ。
「クラリス」
それは距離を詰める呼び方じゃない。
責任を負わせる呼び方だ。
「境界契約の目的は何だ」
クラリスは即答した。
「公益です」
「神殿が受領拒否した支援を、王国の民へ届けるため」
セレスティアが口を挟む。
「神殿は受領拒否など……」
ルーカスが即座に紙を出す。
「受領拒否の文書です」
セレスティアの言葉が詰まる。
詰まる瞬間、人は泣く。
彼女は泣いた。
「……私、知らなくて……」
「知らなかったんです」
知らない。
それも便利な言葉だ。
知らないなら責任がない。
でも恩恵は受け取る。
クラリスは微笑んだ。
「では、知ってください」
「今、ここで」
レオンハルトが言う。
「契約の抜け道はあるか」
来た。
契約を壊すための質問。
クラリスは首を振らない。
ここで「ない」と言えば、神殿が裏で作る。
だから別の答えを出す。
「抜け道は“条文”ではなく“運用”に生まれます」
「紙は綺麗でも、人が汚せる」
レオンハルトの目が細くなる。
「つまり」
クラリスは続けた。
「だから公開します」
「運用を密室にしない」
セレスティアが微笑んで言う。
「公開は素晴らしいことです」
「では、契約も神殿で保管しましょう」
保管。
つまり、鍵を握る。
クラリスは白猫の微笑のまま首を傾げた。
「保管は王宮で」
「神殿が扱うと、神殿に都合のいい“解釈”が増えます」
セレスティアがふっと顔を歪める。
歪めたあと、すぐに“悲しみ”に戻す。
「そんな……」
「私は、ただ皆さんを守りたいだけなのに」
レナートが、初めて口を開いた。
声は平坦だ。
「守るなら、殴らない」
空気が止まる。
レオンハルトがゆっくり言った。
「レナート。言い切れるか」
レナートは視線を逸らさない。
「診断書に書いた通りです」
「拘束痕と外傷は一致します」
司法官が言う。
「救貧倉の監督官を呼び出す」
「監督官の権限も照会する」
セレスティアが泣きながら首を振る。
「そんな……神殿の者が、そんなこと……」
クラリスは言った。
「神殿の者が“そんなことをする”から、契約が必要なんです」
言葉が刺さる。
でもここで刺すのは、感情じゃない。
順番だ。
クラリスは紙を一枚、机の上に置いた。
「境界契約の運用規定案です」
「王宮保管。王宮監査。監査局立会い」
「契約に関する解釈変更は、必ず会議録に残す」
レオンハルトが紙を見る。
「……お前が作ったのか」
「ルーカスと」
クラリスは答えた。
ルーカスが頷く。
「抜け道を塞ぐための規定です」
司法官が言う。
「合理的だ」
セレスティアの涙が止まる。
止まった涙の目は、冷たい。
「クラリス様」
今度は丁寧すぎる声。
「あなたは、王国を割るおつもりですか」
割る。
脅しの言葉だ。
クラリスは微笑んだ。
「割っているのは、誰ですか?」
そして、初めてフルネームを使った。
ここぞ、の場面。
「クラリス・フォン・アルヴェーンは、王国を割りません」
「割られた民を、繋ぎ直すだけです」
レオンハルトが机を叩く。
「決める」
「境界契約は王宮保管」
「運用規定は、クラリス案を基に王宮で整備」
「神殿の単独介入は禁ずる」
セレスティアが息を呑む。
負けた。
負けた瞬間、彼女は泣かない。
泣くと“演技”が見えるからだ。
代わりに微笑む。
「……承知しました」
その微笑が怖い。
負けを飲む微笑は、次の手の微笑だ。
レオンハルトが言う。
「そして、ローワンの件」
司法官が続ける。
「救貧倉の監督官を拘束し、取り調べる」
「暴力と不当拘束の可能性を精査する」
レナートの指が、外套の裾をつまむ。
ほんの少し強い。
でも、まだ崩れない。
クラリスは息を吐いた。
勝ったわけじゃない。
けれど、密室は壊した。
密室を壊せば、神殿は紙を汚しにくい。
汚すなら、誰かが必ず見る。
見るなら、必ず残る。
残るなら、裁ける。
王宮を出る廊下で、ルーカスが小声で言った。
「次は、別ルートです」
「神殿は契約に触れなくなった」
クラリスは頷く。
「だから人を触る」
「ロウか、レナートか、私か」
レナートが静かに言った。
「ローワンだ」
言い切った。
その言い切りが、嫌な確信を連れてくる。
クラリスは境界紙を握った。
冷たい。
冷たいまま、燃やさせない。
けれど次は、紙じゃ止められない種類の汚さが来る。
だから、先に守る。
“守る対象”を、孤立させないために。
その夜。
屋敷に戻る直前、使いの者が走ってきた。
「クラリス様!」
「共同施療所に、神殿の“新しい監督官”が来ています!」
ルーカスが目を細める。
「禁じられたはずだ」
「禁じられたから来たんです」
クラリスは微笑んだ。
白猫の微笑のまま、言う。
「行こう」
「紙の外で、紙を守る」
そして馬車は方向を変え、夜の施療所へ走った。




