第2話 泣き落としには、まず手続きを
今ほしいのは、慰めじゃない。
誰かの同情も、優しい言葉も、この場では役に立たない。
必要なのは——順序と記録と、逃げ道を塞ぐための言葉だ。
大広間の空気は、まだ聖女セレスティアの涙に支配されていた。
彼女が瞬きをするたび、潤んだ瞳が光を反射し、そのたびに周囲の胸がざわめく。
泣けば勝てる。
この世界では、それが“正しさ”として通用する。
王太子レオンハルト殿下が、苛立ちを隠さずに声を張り上げた。
「クラリス。お前はまだ理解していないようだな。
神の祝福を受けた聖女が、ここまで怯えているのだぞ」
怯えている。
——そう“見える”ように、完璧に整えられている。
私は一歩も動かず、背筋だけを伸ばした。
怒らない。反論しない。泣かない。
ここで感情を出した瞬間、私が“完成”してしまう。
「殿下」
声を出した自分に、少しだけ違和感があった。
思っていたより若い声だ。高くて、澄んでいる。
——そうだった。私は今、十七か十八の令嬢だ。
「私が望んでいるのは、無罪の主張でも、誰かへの非難でもございません」
ざわめきが、わずかに静まる。
“何を言うつもりだ”という視線が集まる。
「この場で神の名を用いるのであれば、その行使が契約に則っているかを確認していただきたいだけです」
——契約。
その言葉に、空気が一瞬だけ引っかかった。
貴族たちは契約が好きだ。
婚約も、領地も、寄付も、忠誠も——すべて紙の上で価値が決まる。
だからこそ、この言葉は無視できない。
セレスティアが、胸元で指を組んだ。
肩をすくめ、小さく首を振る。
「クラリス様……私は、何も契約を破るようなことは……。
ただ、皆様に安心していただきたくて……」
声が、かすれる。
涙が、溜まる。
——来る。
私は、それを“見て”いた。
彼女の涙から伸びる、淡い黄金の糸。
王太子へ、貴族たちへ、空気そのものへと絡みついていく。
その糸が、私には見える。
指先が、じんわりと熱を帯びた。
袖の内側で、何かが触れる感覚。
紙——白く、薄く、しかし確かな存在感を持ったもの。
私は視線を落とさず、袖の中でそれを開いた。
文字が、勝手に浮かび上がる。
『祝福契約:救済神派
特典:祈りの感情を周囲へ増幅する
禁止:断罪・排除を目的とした行使』
赤い文字が、続く。
『現在の行使:
場所:公開断罪の場
対象:王太子および貴族
結果:婚約破棄および社会的地位剥奪』
——完全に、自覚あり。
私は小さく息を吐いた。
(やっぱりね)
泣きウサギの顔で、蛇みたいに締め付ける。
この手口、嫌いだ。心の底から。
だが、まだ出さない。
紙は“証拠”だ。証拠は、場を選ぶ。
「殿下」
私は視線を上げ、静かに続けた。
「確認させてください。
本日この場で、聖女様はどの神の契約に基づき祝福を行使されたのですか」
空気が止まった。
質問自体は、穏やかだ。
だが、逃げ場がない。
セレスティアが一瞬だけ言葉に詰まる。
「それは……救済の神の……」
「その神殿から、事前の許可は?」
——被せる。
彼女の“善意”が形になる前に、手続きを前に出す。
王太子が口を開こうとした、そのとき。
「失礼いたします」
背後から、落ち着いた男の声がした。
振り返ると、黒い外套をまとった青年が一人立っている。
神殿の僧ではない。貴族の礼装でもない。
けれど、場慣れした空気をまとっていた。
「宮廷監査局、特任監査官。ルーカス・ヴァルツです」
——監査官。
記録と手続きの専門家。
彼は淡々と続ける。
「本件は、寄付金の流れおよび聖具破損の疑いを含みます。
感情論で裁く前に、まず記録の提出を」
王太子が眉をひそめた。
「これは私的な問題だ」
「婚約が国の加護契約に紐づく以上、私事ではありません」
きっぱりと言い切る声。
その一言で、空気が確実に変わった。
私は内心で頷く。
(話が早い)
助け舟ではある。
でも、主導権は渡さない。
「監査官殿」
私は丁寧に礼をした。
「ご対応に感謝いたします。
必要な記録については、私の手元にもございます」
セレスティアが、また微笑んだ。
泣けばまだいける、と言わんばかりに。
けれど私は、もう糸を見ている。
そして——その糸を断つ条文を、持っている。
(順番を間違えなければ、負けない)
私は袖の中で紙を閉じた。
まずは記録。
次に条文。
最後に——祝福剥奪。
白猫の微笑を保ったまま、私は静かに言った。
「では、手続きに従いましょう。
——契約の確認から」




