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第19話 名前で呼ばれる日、紙で裁く夜


馬車の中は、薬草と血の匂いがした。


ローワンの口の端は切れたまま、肋の痛みで呼吸が浅い。


レナートは黙って、膝の上に布を広げていた。


手つきが丁寧すぎる。


丁寧すぎるのは、怒りを落ち着かせるための癖だ。


私はローワンの視線を受け止める。


「……クラリス」


その名前が落ちた瞬間、胸の奥がひゅっと鳴った。


いつもなら、立場の呼び方が先に来る。


でも今、ローワンは名前で呼んだ。


弱さじゃない。


信頼だ。


「なに」


私は白猫の微笑を貼り付けたまま言う。


ローワンが息を吸って、痛みに顔を歪める。


「救貧倉で見た紙……神殿の紙」


「契約の束だ」


ルーカスが視線を上げた。


「どんな契約だ。誰の名が出てた」


ローワンは一拍置く。


頭の中で、言葉を順番に並べている。


賢い子が、痛みの中でやる作業だ。


「“境界”って文字があった」


「それと、“監督官の任命”」


「あと……俺の名前も」


空気が、少しだけ硬くなる。


レナートの手が止まった。


止まったのに、声は平坦だ。


「お前の名前が、なぜ神殿の紙にある」


ローワンが笑う。


乾いた笑いだ。


「俺を“保護対象”にして、自由に動かすつもりなんだろ」


「保護って言葉、便利だから」


ルーカスが短く言う。


「つまり——」


「ローワンを神殿の管理下に置く」


「その上で、共同施療所の監督も握る」


「最後に、クラリスの契約に手を伸ばす」


私は頷いた。


順番が見える。


順番が見えるなら、先に潰せる。


屋敷に戻ると、お父様がすでに執務室で待っていた。


扉を開けた瞬間、空気が変わる。


この人がいるだけで、背中が固くなる。


それが安心だ。


レナートがローワンを支えたまま言う。


「寝台を」


執事長が走る。


お父様の目がローワンの傷に落ち、次に私へ戻る。


「名前で呼ばれたな」


私は一拍置く。


「……うん」


お父様は頷いた。


「それは、守る価値が増えたということだ」


価値が増えると、狙われる。


だから、守り方も変える。


ローワンを寝台に横たえると、レナートが診療道具を並べた。


手袋をはめ、淡々と傷を洗う。


頬の痣。


口の裂傷。


手首の縄痕。


肋は打撲。ひびは——今は判断しない。


判断は紙になる。


紙にするための判断は、慎重に。


レナートが低く言う。


「深呼吸はできるか」


ローワンが歯を食いしばる。


「……できる」


「じゃあ、やれ」


命令が短い。


短いほど、優しさが隠れている。


レナートはローワンの胸に手を当て、呼吸の音を聞いた。


そして、淡々と言った。


「診断書を書く」


その一言が、刃になる。


診断書は、噂を殺す。


私は机に向かい、ルーカスに言う。


「今日の視察、監督官、拘束、傷、証言、帳簿の空白」


「全部、紙にして王宮へ出す」


ルーカスが頷く。


「もう書いてあります」


「速いね」


「速くないと負けます」


淡々とした声が、冷たく頼もしい。


お父様が言った。


「神殿は次に何をする」


私は答えた。


「“善意”で来る」


「救貧の名で、監督の名で、保護の名で」


「その善意に、こちらが怒った瞬間に勝ち」


お父様が頷く。


「では怒らせに来る」


「うん。ロウを、もう一回」


そのとき、執事長が入ってきた。


顔色が固い。


「セシリア様。王宮から使者です」


「早い」


私は立ち上がる。


白猫の微笑を貼り付ける。


扉の向こうに、王宮の官吏。


その後ろに、神殿の印章をつけた者が一人。


来た。


紙の戦いの形を、変えに来た。


王宮官吏が丁寧に言う。


「本日、救貧倉での視察において混乱があったと報告が入りました」


「王宮として確認します」


神殿の男が、柔らかい声で続けた。


「そして、ローワン殿の保護についても」


私は言う。


「保護ではなく、拘束です」


神殿の男は微笑む。


「言い方の違いです」


「結果として、彼は安全な場所にいた」


(安全)


殴っておいて、安全。


言葉が汚れる瞬間だ。


私は怒らない。


怒ったら負ける。


私は淡々と、机の上の紙束を差し出した。


「診断書が出ます」


「拘束痕、外傷、打撲」


「監督官の権限外の行為です」


神殿の男の微笑が、ほんの少しだけ固くなる。


王宮官吏が言った。


「確認します。診断書の提出を」


「もちろん」


ルーカスが一歩出て、提出用の封筒を置いた。


封蝋は王宮向けの色。


逃げ道を塞ぐ色。


神殿の男が言い換える。


「ローワン殿本人の意思は?」


ここだ。


本人の意思にして、責任を押し付ける。


私は首を傾げた。


「本人は怪我をしています」


「今は意思確認に適しません」


「医師の判断で、面会は制限します」


レナートが奥から出てきた。


白衣の袖を整え、平坦に言う。


「僕の患者だ」


神殿の男が微笑む。


「あなたの患者、ではなく、王国の民です」


「公益は神殿の——」


レナートの目が、ほんの少しだけ細くなる。


声は平坦のまま。


「公益を言うなら、まず殴るな」


一行で、空気が止まった。


神殿の男の微笑が薄くなる。


王宮官吏が咳払いをして、場を戻す。


「……本件は、王宮の監査として扱います」


「神殿側の単独対応は控えていただく」


神殿の男が、丁寧に一礼する。


丁寧に引きながら、刺す。


「承知しました」


「では——クラリス殿」


(名前で呼んだ)


呼び方が変わるときは、距離を詰めるときだ。


神殿の男は柔らかく言った。


「あなたの“契約”について、王宮が再確認を求めています」


来た。


ローワンが見た紙の、続き。


私は微笑んだ。


「再確認なら、王宮で」


「ここではなく」


神殿の男が微笑む。


「もちろん。ですが——」


間を取る。


間は刃になる。


「“境界”の契約は、王国の秩序に影響します」


「秩序のために、必要な調整があるかもしれません」


調整。


つまり、抜け道を探す。


私は頷く。


「分かりました」


「なら、こちらも調整します」


ルーカスが小さく言う。


「先に出しますか」


「出す」


私は即答する。


「相手が契約に触れる前に、契約を“公開の紙”にする」


神殿は密室で紙を弄る。


なら、密室を壊す。


公開すれば、弄った瞬間に記録が残る。


神殿の男の微笑が、初めて揺れた。


王宮官吏が言う。


「本日中に王宮へ。契約関連の資料を提出してください」


「はい」


私は白猫の微笑のまま頷いた。


使者が去り、扉が閉まる。


息が戻る。


戻った息の中で、私はレナートに目を向ける。


「診断書、どこまで書ける?」


レナートが淡々と答える。


「全部」


「傷の種類、推定の強さ、拘束の有無」


「そして——」


一拍。


「“第三者による暴力の可能性が高い”」


私は頷く。


「それで十分」


ローワンの部屋へ行くと、本人は目を閉じていた。


寝ているのか、落ちているのか分からない眠り。


でも、呼吸は少し深くなっている。


私はベッド脇に立ち、声を落とす。


「ロウ」


ローワンが薄く目を開けた。


「……クラリス」


また名前。


胸が少し、熱くなる。


熱くなると、判断が鈍る。


だから私は微笑むだけにする。


「紙は出した」


「逃亡にも、保護にも、されない」


ローワンが小さく笑う。


「……さすが」


私は頷いた。


「次は、契約の紙を守る」


ローワンの目が鋭くなる。


「契約、弄られんのか」


「弄らせない」


私は言った。


「弄るなら、公開の場で」


「公開の場なら、あなたの傷も“物語”じゃなく“証拠”になる」


ローワンは、痛みで顔を歪めながらも言った。


「……俺の傷、役に立つのかよ」


私は白猫の微笑のまま答えた。


「悔しいけど、立つ」


「だから、治して」


ローワンが目を閉じる。


「……分かった」


執務室に戻ると、ルーカスが紙束を整えていた。


お父様が外套を手に取る。


「王宮へ行くぞ」


私は頷く。


「うん。今夜、契約の紙を動かさせない」


レナートが静かに言った。


「僕も行く」


お父様が一瞬だけ止まり、頷いた。


「来い」


レナートは白衣の襟を整える。


整える指が、まだ少し強い。


“俺”は出ていない。


でも、出る寸前の静けさがある。


私は境界紙を握った。


冷たい。


冷たいまま、燃やさせない。


今夜は、契約の紙の夜だ。


そして私は、名前で呼ばれるままに、紙を握って王宮へ向かった。



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