第183話 欠けの印
戻り道は、遠回りにする。
近道は便利だが、便利な道には誰かの目がいる。
火消しは、便利さで燃える。
灰の司祭は路地を三つ越え、壁際を滑るように歩いた。
背後に足音が増えないことを確認してから、ようやく止まる。
止まった場所は、小さな行商の屋台の陰。
甘い菓子の匂いがする。
匂いは人を油断させる。
油断は、記録より先に口を開かせる。
◇
灰の司祭は、袖の内に隠していた薄い紙を取り出した。
紙は真っ白ではない。
少しだけ灰が混じった色。
神殿の紙質でも、王宮の紙質でもない。
“外”の紙だ。
端に、半月の欠け。
欠けは印。
印は、言葉より確実だ。
文は短い。
——鐘が三度。右手袋、白だけ。
——礼拝堂裏、灰封。袋は三。
——供給ありがとう。
供給ありがとう。
またその言葉だ。
言葉は軽いのに、置かれる場所が重い。
灰の司祭は紙を畳み、指先で欠けをなぞる。
(この欠けが付く箇所は、事実)
姐さんのやり方だ。
物語に混ぜて、事実だけを残す。
残した事実だけが、火消しの導線になる。
灰の司祭は、紙を燃やさない。
燃やせば楽になる。
だが、楽は火種だ。
代わりに、別の紙へ写す。
写しは、いつも面倒だ。
面倒の方が嘘は混ざりにくい。
◇
茶屋の二階。
灰の司祭は戸を叩かない。
叩けば“ここに来た”が残る。
窓の鍵穴に、細い針金を差し込み、音を立てずに開けた。
中に入ると、灯りは一つ。
机の上に、封のない封筒。
宛名はない。
それでも、これは自分宛だ。
封筒の中は、領収書の束。
寄付。
奉納。
布。
薬草。
香。
そして、余白に一行。
——供給ありがとう。
(……同じ言葉を、同じ癖で置く)
姐さんは姿を見せない。
見せないほど強い。
見せれば人になる。
人になれば捕まる。
“余白”の方が捕まらない。
灰の司祭は領収書を一枚ずつ見ていく。
印章。
日付。
宛先。
宛先の名は、ばらけている。
孤児院。
礼拝堂。
施療小屋。
行商。
香料屋。
ばらけているから、善意に見える。
だが、善意に見せるには統一が必要だ。
統一されているのは、印だ。
赤。
白。
灰。
三段階。
(……三段階で火を消す、か)
誰が設計した。
誰が許可した。
誰が黙認した。
その答えは、まだ出さない。
出せば火が上がる。
火が上がれば、子どもが焼ける。
灰の司祭は、紙を束ね直す。
束ねるのは、責任の線だ。
線が束ねば、切れる。
◇
外で、馬車の音がした。
軽い。
しかし速い。
伯爵家の馬車ではない。
王家の馬車でもない。
社交用の、柔らかい揺れ。
夜会に向かう者の馬車だ。
灰の司祭は窓から見ない。
見れば、目撃になる。
目撃は“争点”になる。
灰の司祭は、代わりに耳を使う。
石畳を叩く蹄。
止まる。
扉が開く。
衣擦れ。
香が一瞬だけ、冷えた夜気に混じった。
(……貴族の香)
貴族がここへ来る理由は一つではない。
だが、火種が貴族へ繋がるなら、理由は十分だ。
灰の司祭は、封筒を二つに分けた。
ひとつは、大司教宛。
もうひとつは、王宛。
どちらも短く。
成果だけ。
結論は書かない。
結論は刃物になる。
刃物は、必要なときに抜く。
灰の司祭は封を閉じ、刻印を押さない。
刻印は“所属”だ。
所属は、敵を呼ぶ。
火消しは、所属しない。
◇
階段を降りる前に、灰の司祭は一度だけ立ち止まった。
姐さんは姿を見せない。
だが、余白でここまで線を繋げた。
そして、最後に同じ言葉を置いた。
——供給ありがとう。
供給とは、物ではない。
供給とは、火種だ。
火種とは、情報だ。
灰の司祭は、喉の奥で小さく息を吐く。
(……姐さん)
(面白がるふりが上手いですね)
面白がっているからこそ、危険でもある。
だが、危険だからこそ、火は消える。
灰の司祭は戸口で振り返らず、外へ出た。
次は夜会だ。
鐘の三度より先に、
白い手袋の右手を、記録で縛る。
灰は、燃える前に縛る。




