第182話 余白の合図
夜は、慈善に優しい。
暗いほど、善意は美しく見える。
美しく見えるほど、箱は疑われない。
灰の司祭は孤児院の門から離れ、通りの影に身を沈めた。
歩かない。
走らない。
“いる”のに、“いない”ふりをする。
火消しの基本だ。
◇
鐘はまだ鳴らない。
鳴らないうちに動くものは、急ぎではない。
習慣だ。
裏口が開く音。
木が擦れる音。
箱が床を滑る音。
運ぶのは、孤児院の者ではない。
足取りが軽い。
手が汚れていない。
布が新しい。
(帳簿の手)
男が二人。
箱はひとつ。
封は灰。
そして、右手だけ白い手袋。
片方だけ白いのは、意味がある。
白は“正しさ”の仮面だ。
片手だけなら、作業がしやすい。
箱は荷台へ載せられ、布が被せられた。
布は慈善の印。
誰が見ても“善意”に見える。
灰の司祭は距離を保ち、追う。
近づかない。
近づかないまま、逃げ道だけ塞ぐ。
曲がり角。
灯りの少ない通り。
祈りの小祠が並ぶ裏道。
神殿の白の目は届かない。
伯爵家の白衣の目も薄い。
だからここに流れる。
◇
荷台は、市壁の内側で止まった。
倉庫ではない。
酒場でもない。
小さな礼拝堂の裏手。
表は祈りの場、裏は物資の場。
便利な構造だ。
疑う者は“祈りを疑う”ことになる。
男たちが布を外し、箱を下ろす。
扉の鍵が回る音。
鍵。
また鍵だ。
灰の司祭は息を殺し、扉の隙間を見る。
中は暗い。
だが、暗闇に白が浮く。
白い袋。
白い粉。
筒状の金属。
(……祈りを弾く“壁”の部品)
神殿の祈祷室で見えたものと、匂いが同じだ。
違うのは、ここでは“祈り”の言い訳が先に立つこと。
男の一人が言う。
「急げ。鐘が鳴る」
鐘が鳴けば、祈りの時間だ。
祈りの時間は、人の目が別の場所を見る時間でもある。
灰の司祭は動かない。
動けば見つかる。
見つかれば、箱が消える。
消えれば、線が細くなる。
灰の司祭は、別の線を拾う。
礼拝堂の裏庭。
踏み固められた土。
車輪の跡。
そして――灰色の封蝋片。
封蝋片は、落ちると隠せない。
灰の司祭は封蝋片を拾わない。
拾えば“触った”が残る。
代わりに、目で形を覚える。
欠け。
半月の欠け。
(……また、欠け)
誰かが、わざと落とした。
落とすのは、合図だ。
合図は、次の場所を呼ぶ。
◇
鐘が一度鳴った。
男たちの動きが速くなる。
袋が奥へ運ばれ、金属筒が木箱に入れられる。
そして、紙束。
薄い紙束。
紙束は、祈りより危険だ。
紙は燃え残る。
燃え残るから、責任が残る。
男の一人が紙束に封をする。
封蝋は灰。
刻印は――見えない。
見えない角度。
見えない位置。
(刻印を見せない封は、見せたくない相手がいる)
二度目の鐘。
男たちが扉を閉める。
鍵が回る。
鍵が握られる。
その瞬間、裏道の奥で別の足音がした。
一人。
軽い。
しかし、迷わない。
“ここを知っている”足取り。
男たちが身構える。
だが、相手は身構えない。
足音が止まり、声が落ちる。
「今日は、ひとつだけ」
声は女。
若くはない。
老いてもいない。
柔らかいのに、切れる。
(……姿は見せない)
姿を見せずに、言葉だけを置く。
言葉だけを置けば、誰も顔を証言できない。
灰の司祭は、その声を追わない。
追えば、こちらが露出する。
露出より先に、必要なのは“確定”だ。
三度目の鐘。
礼拝堂の中で祈りが始まる。
外は静かになる。
静かになった瞬間、嘘の音が浮く。
灰の司祭は、心の中で結論を一つだけ置いた。
孤児院は入口。
礼拝堂は中継。
そして――箱の先は、貴族の食卓だ。
火は、もう貴族の足元にある。
灰の司祭は笑わずに、踵を返す。
今夜は見ただけで十分だ。
次は――“記録”に変える。
灰は、火が上がる場所を選ぶ。
選ばせないために。
鐘の余韻の中、
灰の司祭は足音を消して去った。




