第180話 鐘が鳴る前
夜会の準備は、夜会の当日では遅い。
当日は、香りと笑いと布の擦れる音に紛れて、
“正しい顔”がいくらでも作れる。
だから火消しは、鐘が鳴る前に動く。
◇
灰の司祭は夜明け前の神殿へ入った。
白でも灰でも入れる。
それがこの国の神殿の構造だ。
主神の白。
境界の線。
どの祈りも、同じ屋根の下を通る。
そして――同じ屋根の下ほど、混ぜものが通りやすい。
灰の司祭は祈祷室へ向かわない。
会計室へも向かわない。
向かうのは、その二つの“間”だ。
記録庫。
写しが集まる場所。
綺麗に整えられた嘘が並ぶ場所。
扉の前で、年配の書記が立ち止まらせようとした。
「こちらは――」
灰の司祭は笑って、礼をする。
「迷いました。すみません」
礼が丁寧だと、相手は一瞬だけ気を抜く。
気を抜いた瞬間、視線が外れる。
視線が外れた隙に、灰は中へ入る。
火消しは、争わない。
争うと記録が残る。
残したい記録は、“相手の”だ。
◇
記録庫の中は紙の匂いがする。
乾いた匂い。
墨の匂い。
そして、古い封蝋の匂い。
灰の司祭は棚を一つずつ見ない。
見れば時間がかかる。
時間がかかれば目立つ。
探すのは、癖だ。
“同じ薄さ”。
“同じ欠け”。
“同じ余白”。
写しは、誰が作っても同じにならない。
同じになるのは、意図がある時だけだ。
灰の司祭は、奉納帳の写しの束を一つ抜いた。
抜いた瞬間、紙の端が指に触れる。
ざらり。
このざらりは、紙ではない。
墨の粉でもない。
封蝋の粉だ。
灰色。
わずかに青み。
会計室の封の色。
(……写しに封蝋の粉?)
普通は付かない。
付くとしたら、封の箱の上で写しを作った時だ。
灰の司祭は紙を戻し、指先を袖で拭った。
拭うのは痕を消すためではない。
余計な線を自分につけないためだ。
棚の一番下。
奉納の取りまとめ。
孤児院宛の控え。
受領の写し。
その束の一番上に、印がある。
赤・白・灰。
三段階の印章。
そして――灰の印が、綺麗すぎる。
綺麗すぎる印は、押した者が“慣れている”。
慣れている者は、日常で押している。
つまり、孤児院の中に押し手がいるか、
孤児院が外の押し手の“机”になっている。
灰の司祭は紙を一枚だけ抜き、光へ透かした。
透かすと、筆圧が見える。
筆圧は、性格だ。
押しつける筆圧。
ためらわない筆圧。
帳簿の手。
だが、現場の帳簿係の筆圧ではない。
“責任を負わない帳簿”の筆圧だ。
(上の手だ)
灰の司祭は紙を戻した。
持ち出さない。
持ち出すと火が上がる。
火を上げるのは、鐘が鳴ってからでいい。
今は――鐘の鳴る場所を決める。
◇
記録庫を出る時、年配の書記が視線を上げた。
「……何かお探しでしたか」
灰の司祭は笑って、誤魔化す。
「紙の匂いが好きで」
書記が眉をひそめる。
理解できないものは、追わない。
追わない方が、灰には都合がいい。
◇
外に出ると、神殿の中庭に白い鳩が降りていた。
鳩は祈りの象徴だ。
祈りは、時に便利な道具だ。
灰の司祭は鳩を見ず、壁の影を見た。
影は伸びている。
影が伸びるのは、日が上がる前だ。
日が上がる前に動く者は、火消しか、放火だ。
灰の司祭は心の中で結論を置く。
(孤児院は、入口だ)
入口なら、出口もある。
出口は夜会に繋がる。
鐘が三度。
右手だけ白い手袋。
そして――名簿と席順。
灰の司祭は足を止めず、歩き出す。
今日は誰にも会わない。
会えば余計な会話が増える。
会話は甘くなる。
甘い会話は、姐さんの餌になる。
餌になれば、余白が増える。
余白が増えるのは嫌いだ。
だが、余白があるから火が消えることもある。
灰の司祭は小さく息を吐いた。
(……面倒ですね)
面倒の方が、嘘は混ざりにくい。
鐘が鳴る前に、
嘘が混ざる机の場所を突き止める。
灰の司祭は、次の場所を思い浮かべた。
孤児院。
慈善の箱。
祈りの箱。
正しい箱。
正しい箱に見せかけた、混ぜものの箱。
灰は笑わない。
笑わないまま、
火が上がる場所へ向かうだけだ。




