第18話 見せしめの傷、紙の反撃
ローワンがいなくなってから、共同施療所の空気は一段重くなった。
重いのに、止まらない。
止まった瞬間、相手の物語が勝つからだ。
患者は来る。
スタッフは動く。
レナートは淡々と治療を続ける。
淡々としているのに、白衣の袖口を整える回数だけが増えていた。
それは癖じゃない。
抑え込んでいるときの手つきだ。
執務室では紙が増えた。
机の上の束が、日ごとに厚くなる。
王宮、警備隊、監査局。
提出先ごとに封蝋が違う。
封蝋の違いは、逃げ道の違いだ。
逃げ道を塞ぐための違い。
ルーカスが言った。
「動きました」
「何が?」
私が問うと、ルーカスは一枚の紙を指で叩く。
「神殿の監督官が、共同施療所に入る準備をしています」
「今日の午後です」
お父様が短く言った。
「施設を取って、ローワンを孤立させる」
「うん」
私は頷いた。
「孤立させた上で、“自白”か“処分”」
ルーカスが淡々と続ける。
「ローワンを持っている側が、条件を出せます」
「たとえば——」
紙をめくる音。
「“公爵令嬢の契約の破棄”」
「“共同施療所の閉鎖”」
「“境界派の切り捨て”」
(来る)
来るなら、先に折る。
私は息を吸った。
「ロウが、どこにいるかは?」
ルーカスが小さく頷く。
「絞れています」
「裏口の靴跡と布片の繊維」
「警備隊の巡回記録」
「目撃者の老人の証言」
「四つが繋がった」
お父様が言った。
「場所は」
ルーカスは地図を広げた。
王都の外れ。
神殿の古い倉庫群。
表向きは“救貧倉”。
実際は、監督官の出入りが多い。
「ここです」
私は指を置いた。
冷たい。
地図の紙も、境界紙みたいに冷たい。
「救貧倉なら、“公益”の名で隠せる」
「そうです」
ルーカスが頷く。
「だから汚い」
レナートが、部屋の隅で立っていた。
いつの間にか。
足音がないのが怖い。
平坦な声で言う。
「行く」
「行って、返す」
私は白猫の微笑のまま首を振る。
「突入はしない」
レナートの目がわずかに動く。
「……なぜ」
「突入は物語を作られる」
私は淡々と言う。
「“貴族が救貧倉を襲った”にされる」
「それは、ロウを切り捨てるのと同じ」
レナートの指が、白衣の袖を掴む。
いつもより強く。
それでも声は平坦のままだ。
「なら、どうする」
私は境界紙を机に置いた。
「紙で包囲する」
「救貧倉の管轄、管理者、入出庫記録」
「監督官の任命状と権限」
「警備隊の立会い」
「全部揃えて、“視察”で入る」
お父様が頷く。
「正面から入るわけだな」
「うん。正面の方が、逃げ道を塞げる」
ルーカスが言う。
「王宮司法官の名で、監査局が同行できます」
「なら通る」
私は頷いた。
「今日の夕方。視察」
夕方の空は、灰色だった。
王都の外れは風が強い。
救貧倉の前には、神殿の印章が掛かっている。
扉の前に立つ監督官は、昨日の男とは違う。
もっと“役人”の顔をしている。
役人の顔は、悪意を隠す。
ルーカスが淡々と告げた。
「監査局です。王宮司法官の命で視察に来ました」
監督官が微笑む。
微笑が柔らかいほど、嘘が混じる。
「ようこそ。お待ちしておりました」
待っていた。
つまり、準備していた。
私は白猫の微笑のまま、息を吸う。
(時間がない)
扉が開く。
中は冷たい。
湿った匂い。
薬草の匂いじゃない。
古い布と水と、鉄の匂い。
奥へ進むほど、空気が薄くなる。
人がいる匂いがする。
でも声がない。
監督官が言った。
「ここは救貧のための倉です」
「飢えた者に布と食を」
私は頷いた。
「見せてください。入出庫記録と、保護者名簿」
監督官の眉がわずかに動く。
「もちろん」
案内された机の上には、用意された帳簿がある。
用意が良すぎる。
ルーカスが帳簿をめくる。
指が止まる。
「……空白が多い」
監督官が微笑む。
「慌ただしくて」
(嘘)
慌ただしいときほど、記録は増える。
空白は、消した痕だ。
私は視線を奥へ投げる。
扉が一つ。
鍵がかかっている。
監督官の体が、わずかにその扉を隠す。
私は言った。
「奥は?」
「保管庫です」
「見せてください」
監督官が微笑を保つ。
「危険物もありますので」
私は微笑んだ。
「危険物なら、なおさら視察が必要です」
「王宮司法官の命です」
ルーカスが紙を出す。
命令書。
封蝋。
監督官の微笑が少し固くなる。
そして、鍵を出した。
鍵が回る音は、やけに大きい。
扉が開く。
暗い。
湿った空気が、顔にまとわりつく。
その奥で、誰かが息をした。
「……ロウ」
私が小さく名前を呼ぶと、影が動く。
ローワンがいた。
床に座らされている。
手首には縄の痕。
頬に青い痣。
口の端が切れている。
赤毛が乱れて、いつもの目つきの悪さが、少しだけ薄い。
薄いのに、目の奥が鋭い。
生きてる。
そして、怒ってる。
ローワンが私を見る。
「……来たか」
声が掠れている。
私は白猫の微笑のまま頷いた。
「来た」
レナートが一歩前に出た。
その瞬間、空気が変わる。
平坦な顔が、さらに平坦になる。
感情が消えたみたいに見える。
でも、それは違う。
感情が“凍った”顔だ。
監督官が慌てたように言う。
「これは誤解です!」
「彼は保護を——」
ローワンが笑った。
笑いが乾いている。
「保護?」
「殴っておいて、保護かよ」
私は息を吸う。
ローワンが“殴られた”と言った。
言葉になった。
紙にできる。
ルーカスが即座に言う。
「傷を確認します。医師、診断を」
レナートがローワンの前に膝をついた。
触れ方が丁寧すぎて、逆に怖い。
頬の痣。
口の裂傷。
手首の縄痕。
そして、肋骨あたりに手を当てた瞬間。
ローワンが小さく息を詰めた。
(痛い)
レナートの目が一瞬だけ動く。
次の瞬間、声が低くなった。
「……呼吸」
ローワンが吐く。
浅い。
レナートが言う。
「肋に痛みがあるな」
監督官が声を上げる。
「暴れたのです!」
「自分で転んだ!」
レナートが顔を上げた。
平坦な声。
でも、温度が違う。
「僕は医師だ」
「転んだ傷じゃない」
監督官が口を開く。
「貴族の医師が庶民を——」
その言葉が終わる前に。
レナートが、静かに言った。
「……俺の患者だ」
空気が止まった。
“僕”が崩れた。
ほんの一瞬。
でも、聞いた者の背骨が冷える。
ローワンが目を瞬かせる。
私も、わずかに息を止めた。
レナートはすぐに表情を戻す。
戻したのに、声だけが戻らない。
「この傷は、外力だ」
「拘束の痕だ」
「そして、痛みがある」
「……診療妨害どころじゃない」
ルーカスが淡々と告げる。
「監督官。あなたの権限で拘束しましたか」
監督官が言葉を詰まらせる。
「それは——」
ルーカスが紙を出す。
「拘束命令書は?」
「保護なら、記録がある」
監督官の喉が鳴る。
紙がない。
紙がない時点で、負けだ。
私は白猫の微笑のまま言った。
「ロウを返してください」
「今すぐ」
監督官が強がる。
「彼は危険です。刃物の——」
「その件は監査局が扱っています」
ルーカスが切る。
「ここで拘束する権限はない」
警備隊が一歩前に出る。
監督官の顔色が変わる。
役人の顔が、ただの人になる。
「……分かりました」
縄が解かれる。
ローワンが立とうとして、ふらついた。
肋が痛い。
足元が揺れる。
レナートが支える。
支える手が強い。
強すぎて、抑え込んでいるのが分かる。
ローワンが小さく言った。
「……悪い」
レナートが低い声で返す。
「謝るな」
「謝る相手が違う」
ローワンが息を吐く。
そして、私を見る。
「俺は、釣れた」
口の端が切れているのに、笑う。
「合図出したやつ、いた」
「二階の窓。昨日と同じ」
私は頷いた。
「見たんだね」
「見た」
ローワンが言った。
「それから——」
ローワンが息を吸って、痛みに顔を歪める。
「……神殿の紙、見た」
「契約の紙だ」
空気がまた冷える。
契約。
私の、紙。
ルーカスが即座に言う。
「何が書いてあった」
ローワンがかすれ声で言う。
「公爵令嬢の契約を——」
そこでローワンが咳き込み、肋を押さえる。
レナートの手が、さらに強くなる。
私は白猫の微笑を貼り付けたまま言った。
「続きは屋敷で」
「今は、帰る」
扉の外へ出る。
風が冷たい。
冷たい風が、ローワンの顔色を少し戻す。
でも、傷が残っている。
見せしめの傷。
見せしめは、次の物語のための前置きだ。
私は境界紙を握った。
冷たい。
冷たいまま、燃やさせない。
ローワンは怪我をした。
だから、今度はこちらが怪我をさせる番だ。
拳じゃない。
紙で。
そして屋敷へ戻る馬車の中。
ローワンが小さく言った。
「……俺がいなくなれば、良かったと思った」
「一瞬だけな」
私は白猫の微笑のまま、静かに返した。
「一瞬で済んだなら、あなたは賢い」
「もう二度と、ひとりで釣らないで」
ローワンが目を閉じた。
「……分かった」
レナートは窓の外を見たまま、低く言った。
「次は、殺しに来る」
その言葉は平坦だった。
でも、声の底に、さっき崩れた“俺”が残っていた。




